劉祥福

安治川098 〔劉革雲(甥)の証言、原陽県で聞き取り、2007年3月整理(張忠杰)〕

 ・叔父は何の罪もないのに県城で日本人に拉致され、北関駅まで連れて行かれました。そこから汽車に乗せられて、開封、徐州を経て山東省の済南まで運ばれ、そこの大きな監獄に入れられたそうです。そこで一ヵ月余り働かされましたが、食べ物はごくわずかで着の身着のまま、おまけにしょっちゅう殴られていました。夜になると監視が特に厳しかったそうです。大小便に行くにも報告しなければならず、そうしないとこっぴどく殴られるのです。一ヵ月余り経った頃、日本人は叔父たち数百人を集めて訓示を垂れ、その一人一人に服一着を配ってから汽車に押し込め、青島まで運びました。青島で一夜を明かし、翌日叔父たちは船に乗せられて日本に連行されたのです。
 ・叔父たちは船の中ではトウモロコシの粉で作った生煮えのマントウとニンニクしか与えられず、飲み水は苦くて塩辛い海水を飲まされていました。叔父たち数百人は船倉に積んであった鉱石の上で寝かされました。多くの人が船酔いで苦しみ、横になったまま動けなくなっていました。そのあと船が接岸しました。叔父たちは船から下ろされ、今度は車に乗せられて大阪労工所まで連れて行かれました。
 ・大阪での主な仕事は船から石炭を荷下ろしすることでした。大きな船から石炭を担いで岸に運ぶのです。一回に担ぐ重さは五十キロ以上あったそうです。一日十数時間働かされたのに、腹を満たすほどの食事は与えられず、衣服の支給もまったくありませんでした。少しでも運び方がのろいと、日本の現場監督に殴られました。たくさんの人がそこで亡くなったそうです。
 ・その後、日本が降伏してから、叔父たちは仕事をしなくてもよくなり、自由になりました。食事も腹一杯食べられるようになりました。一ヵ月余り経った頃、大阪から船に乗って帰国しました。
 ・叔父が拉致されて日本で労工をさせられたせいで、家族は重大な損害をこうむりました。叔父がいなくなった後、一家は離散して家族はばらばらになってしまいました。叔父は帰国できたとはいうものの、その後ずっと独り身のままで亡くなっていきました。