劉清長 [事業場名簿で劉承緒]

築港[別]13 〔本人証言1995年8月17~18日、石家荘で聞き取り〕
   〔本人証言1996年11月2日、大阪で聞き取り〕
   〔本人証言1996年11月9日、大阪で聞き取り〕

 ・23才の時、密告され鉄道の警務段に捕まり日本軍1417部隊に引き渡された。銃剣を付けた銃を持った兵士が私たちを監視し、しばらく鉄で作った鳥籠のような檻に入れられ、ずっと中腰の姿勢を強いられた。「水漬け」や、竹の串を指に刺すなどの拷問を受けた。
 ・塘沽収容所にいた時、私と李鶴然が逃亡計画をたてていた。私と曹鳳洲、趙湖海、他一人の4人が寝ていないことが発覚して、電信柱に縛られ、背中や尻を剣で刺された。今でもまだ傷痕がある。
 ・大阪に着き、船を降りたところで服をぬがされ消毒された。薬の匂いのする白い液をかけられた。体に白い泡が出た。服と毛布は蒸され、まだ乾いていないのをまた着せられた。
 ・大阪では宿舎から1キロメートル程離れたところで荷役の仕事をやらされた。一日16時間も働かされ、食物は高梁やカビた小麦粉で作った小さな「窩頭」(ウォトウ)がもらえただけだった。
 ・忙しい時には、24時間、36時間、48時間も連続で働くこともあった。
 ・宿舎から現場までは歩いて行った。行く人数は向こうが言う人数によるが、だいたい30人前後、1小隊単位が多かった。いつも日本人が1人か2人棒を持って監視していました。1人の場合は前にたって引率し、2人の場合は前後についていた。途中でみかんの皮や、煙草の吸い殻などを拾うと殴られた。住宅を通って現場に行く時には、男からも女からも「くさいくさい」と言われた。
 ・第2中隊第3小隊の9班の班長の朱金鼎は、築港に着いてから3日か4日位でまだ働かないうちにもう死んじゃった。その後、自分が班長になった。
 ・第2中隊長の顔孔仁は、大阪に着いて3カ月もたたないうちに亡くなった。死んだ時は体が全身腫れていた。彼が寝込んだ時私たちは常にそばにいた。当時ムシロの上で寝たきりだから小便したり大便したり。あまり汚いので、僕ら他の人の敷いた物と取り替えをしたりいろいろめんどうをみてやった。もう一人の人と彼の面倒をみた。最後の最後まで彼のそばにいた。彼が病気になって寝たきりで、私達に殴られた傷跡、腐った所を見せた。私達に、武内という奴に殴られてこんなになったというような話をしてくれた。それだから私達いっそう彼に対して親切にして見守ってやった。
 ・空襲の時は私は宿舎で寝ていた。棟が焼け、焼死した仲間が何人かいた。
 ・現場には板や金属などが落ちていてとても危険だった。我々は石門で支給された靴をはいたままだった。大阪に来てから、1回地下足袋の支給があったが全員にはゆきわたらなかった。そこで、板を靴底にしたり、ゴムをおろすときにちょっと取って足に巻いたりした。ヘルメット、手袋、作業服などは支給されなかった。
 ・賃金はもらった記憶がない。