劉景元 [事業場名簿で劉定遠]

築港134 〔本人証言1994年12月28日、保定で聞き取り〕
      〔本人証言1995年8月21~23日、保定で聞き取り〕

 ・1944年6月21日、村で日本の憲兵に捕まった。私の父は村長をしており共産党に食料を送っていた。日本軍の動きには警戒をしていたが突然日本軍が村を包囲した。ひどい拷問をされた。水を無理矢理何度も飲ませたり、殴られたり、その時の傷が今も残っている。「お前は、絶対共産党のために食料運びをやっているんだ。」と言われたが認めないと、もっとひどい拷問をするとおどされた。
 ・龍華憲兵隊に連行され拷問された。一人の日本兵が私が尋問されている部屋に入ってきた。鞭と棒を手にした3人は、一斉に私を殴り付けた。「八路軍に手紙を届けたか。食料を届けたか。」と殴りながら聞く。私は痛さで気が狂いそうになり殴られるまま気を失いその場に倒れてしまった。
 ・大阪では着るものにいろんな工夫をした。石家荘でもらった布団は中の粗悪な綿がすぐ偏ってしまったので、半分に切り前に穴を空けて体にかけ縄で縛った。上から服を着て寒さを防いだ。一番困ったのは靴。中国を離れたときはいていた布製の靴はすり切れて履けなくなっていた。南洋から運んできた生ゴムの厚い切れ端を拾って麻の糸でぐるぐる巻いて縛り付けた。不安定な歩き方になったが船の上に落ちている鉱石などで足を切るよりましだった。
・船の荷おろしという重労働をしているのに、食事は粗末な小さなマントウ2個だけだった。
 ・日本では冬場でも綿入れの防寒の服もないし、食物も十分になく、いつもお腹が減って惨めな状態だった。仕事に行く時、監視員が棒を持って後からまるで動物を追いかけるようにこずいて追い立てた。町に入ると、風呂にも入っていなくて体が臭うので日本人にくさいくさいと言われた。
 ・馬慶林さんは帰国前から体がかなり弱っていた。日本が投降して我々が帰国する11月、彼はもう自分で歩くこともできなくなり仲間に抱えられて乗船した。出航して2、3日目に衰弱して亡くなった。おそらく保定の人だったと思う。船長は馬慶林の髪の毛を切り取り、封筒に入れて名前を書いた。この人の行く先を知っている人を尋ね、封筒を託した。新楽県の劉二玉に渡した。
 ・大阪から帰国してみると、家の物をみんな掠奪されていた。家には何も無かった。母は私のことを気に病んで気に病んで病気になってしまい既に死んでいた。