劉同生[事業場名簿で劉慶和]

築港027 〔劉芳(養女)の証言、1994年1月15日証言。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・父には息子も娘もいなかったので、私が引き取られて、養女として育てられた。
 ・父は入党後相次いで自衛部隊の隊長や村党支部の書記を担当し、また秘密連絡員としての仕事もこなすなどしていた。1944年の春、父は辛集(河北省辛集県)まで来て敵情を調査していたが、裏切り者によって売り渡され、共産党討伐隊に捕まってしまった。
 ・南兵営を経て、大阪に連行され、日本人は、中国人たちを働かせることを知っているだけで、彼らが死のうが生きようがまるでおかまいなしだった。賃金を払わないばかりか、そのうえ父たちに残酷なしうちをした。空から毎日のようにとどろき渡る飛行機の轟音が父への脅しと化し、父の頭脳はショックを受け続けて、ついには精神に異常を来すようになった。
 ・父が拉致された後、ずっと便りの一つもないので、私の母は一人で家の中で身内を失った後の精神的苦痛を耐え忍んでいた。両脇には二人の幼子を抱えていたが、母も当時は共産党の地下党員で革命のための活動に忙しく、加えて医療環境が悪かったので、二人の子どもは不幸にも相次いで夭折した。
 ・養女となり、父の一生涯の苦痛と母の過労が見えてきた。現在、母はもう両目とも失明してしまい、自分で身の回りのことができなくなっている。
 ・もしも日本人が父を拉致して日本で働かせるようなことがなかったなら、この家族もこのような状態ではなかったはずだ。きっと幸せと喜びに満ちあふれていたはずだ。