婁金声 [事業場名簿で婁金庄]

川口021 〔婁子義(子)の証言、2007年1月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年6月、父と同村の婁戦彪ら数人は、村と村人を守る地方組織に加わった。その後、県城に行ったときに、彼らは不幸にも日本人に拉致され北関駅に監禁された。数日後、二百人余りの人々と一緒に有蓋貨車に押し込まれ、山東省済南に運ばれた。貨車から下ろされ、日本兵が銃を持って両側に立つ中を、新華院という大きな建物まで歩かされ、そこに入れられた。
 ・「新華院に入るのは閻魔殿に入るのと同じだ」とうわさされていたように、そこはこの世の地獄だった。食べ物はごく少量、着せられたものは薄っぺらなボロ。夜、横になると身動きしてはならず、大小便に行くときさえ報告しなければならなかった。さもなくばこっぴどく殴られるのだ。
 ・日本に行く船の上での食べ物は、生煮えのトウモロコシとニンニクしかなかった。船倉の鉱石の上に寝かされた。多くの人が船酔いと飢えで病気になり、動けなくなった。
 ・大阪の港に着いた翌日から働かされた。船から荷を下ろす仕事で、荷は日本が中国から奪い取ってきた穀物、鉄、銅、石炭などだった。一日に十数時間働かされた。わずかな食事で重労働、病気になっても治療はされず、牛馬のような苦しい生活だった。
 ・父の体は日本での苦役によってズタズタにされていた。ようやく家に戻れた後も、何度となく病気になり、いつも薬を飲み注射を打っていた。それが死ぬまで続いた。