呂宗瑞 [事業場名簿で呂崇瑞]

川口065 〔本人証言、2002年1月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1943年8月に陽武の県城の北関で日本兵に拉致された。北関駅から有蓋貨車に乗せられて、数百人の人とともに開封、徐州を経て済南に運ばれた。
 ・山東省の済南で貨車から下ろされると、日本兵が銃を構え、シェパード犬を連れて、私たちの両側に立ち並んでいた。その真ん中を、新華院強制収容所まで追い立てられていった。
 ・新華院では、一日二食、うすいアワ粥が一碗しか与えられなかった。おかずもマントウもない。あるときは新華院の外の北山まで登らされ、穴を掘ってガソリンの入ったドラム缶を埋める作業をやらされた。仕事をさせられない日は、新華院の中に閉じこめられたまま、動き回ることさえ許されなかった。
 ・新華院では、寝るときは、動くことはおろか話をすることさえ許されなかった。もしも一声でも発しようものなら、警備隊員からめった打ちにされていた。大小便に行くときに報告をしなかったら、やはり殴られていた。
 ・ある日、汽車に乗せられて青島まで運ばれ、大きな建物の中に入れられた。そこに五日間閉じこめられていた間の食事は、一日二回、質の悪い小麦粉で作ったマントウ一個だけ。
 ・日本に行く船には四百人余りが乗せられ、全員が船倉の鉱石の上で寝かされた。食べ物はやはり三等級の小麦粉で作ったマントウで、腹を満たせるような量ではなかった。
 ・大阪では、埠頭で船からの荷下ろしやらされた。砂糖、布、落花生、ゴマ、塩、鉄、小麦、トウモロコシ、大豆などを倉庫の中まで運ばされた。
 ・郷里にたどり着くと、父母はすでに亡くなっていた。年老いた父母にとって、私が拉致されたことによる打撃はあまりにも大きく、嘆き悲しんで病気になって死んでしまったと兄たちから聞かされた。このすべては日本人がもたらしたものだ。もしもあのとき私が拉致されていなかったなら、このような我が家の悲劇は生まれなかったのだ。