魯伝法 [事業場名簿で芦傳法]

安治川035 〔魯照順(子)の証言、原陽県で聞き取り、1999年12月整理(張忠杰)〕

 ・1944年7月に原陽の県城で拉致された。捕まってから県城北街の小さな駅まで連れて行かれ、1日そこに監禁された。その後、有蓋貨車に乗せられ、済南の新華院に送りこまれた。
 ・新華院にいた期間中は、ろくに食事を与えられず、一日中山に登って穴を掘りガソリンを埋める大変な重労働をさせられた。夜寝るときは逃亡しないよう警備隊に見張られた。逃亡した人も結局途中で捕まって戻され殴り殺されるか傷だらけに殴られた。
 ・新華院では約1ヶ月働かされた。その後、青島に連れられ日本に向かう船に乗せられた。7日間ほど船に乗り、大阪で船から降ろされた。
 ・安治川労工所に送られ、埠頭で石炭を下ろしたり担いだりする仕事をさせられ、長いときは1日10数時間も働かされた。昼は働いていた場所で食事をし、夜になると日本人が労工所に連れて帰った。食事は1人当たり1日3個の小さなマントウしか与えられなかった。病気になり仕事に出られなくなった人はマントウが1日1個か2個に減らされた。病気になっても治療はしてもらえなかった。
 ・服は1着も支給されなかった。寒い冬になっても、新華院で配られた服をそのまま着ていた。たくさんの人たちが凍死や餓死した。日本人は父や難友たちをまるで牛馬のように扱い、牛馬にも劣る生活をさせられていた。
 ・父は1978年2月、病気になり、治療のかいもなく享年53歳で亡くなった。ずいぶん時が経ってしまったので、以前父が私に語ってくれたことをあまりはっきりとは覚えていない。