李丹桂[事業場名簿で李丹貴]

築港207 〔遺族の証言、1991年3月5日証言。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・1944年の陰暦6月11日、村(河北省定県)の南で日本の鬼どもに出くわし、王京駅(今の清風店駅)に連れ去られ、日本憲兵隊の監獄に閉じ込められた。拉致してきた人数があまりに多かったためか、三日後に尋問が行われた。革の鞭、鉄の棒で殴られ、私は全身傷だらけ、血だらけになった。左足のすねに傷を負わされた。当時18歳で、まだ政治的には未熟なうえに、このような耐えきれないほどむごたらしい拷問を受けたので、自分は村の武装工作隊の副主任で、銃器を家の石臼の下に隠しているなどと、いいかげんに白状してしまった。売国奴はそれを真に受け、翌日売国奴数人と十数人の日本の鬼どもが我が家にやって来て、家宅捜査を行い、石臼をひっくり返した。ところが、何も得られなかったので、鬼どもは大いに落胆した。そこで、我が家の生活用品などをめちゃくちゃに壊して、衣類をかっさらっていった。
 ・石門捕虜収容所において、労工の歌などというものを作って歌わせた。歌詞の大意は次のようなものだ。「我々の労工訓練所は偉大であり、このうえなくめでたい。我々の労工訓練所は崇高このうえない。それは心身を鍛練する溶鉱炉だ。それは労工を養成する殿堂だ。我々は思想改造して秩序を守らなければならない。等々……」。
 ・大阪市に着いた後は、ある小学校が宿舎とされた。木造の建物は吹きっさらしで、その頃はもう冬に入ろうという時期だが、綿入れもなければ、藁のムシロが布団替わりなのだ。夜は寒風が骨身にしみ、なかなか寝付けなかった。それでも昼間はいつもどおり働きに出なければならない。毎日食べたものと言えば、質の悪い小麦粉で作ったマントウで、覚えているのは、300個が200斤の粗悪な小麦粉で作られていることだ。一人あたり毎日7両に満たない粗悪な小麦粉しか与えられていないことになる。さらに、日本の職人頭は好きなように食べているわけだから、私たちが毎日食べている粗悪な小麦粉は、半斤に満たないということになる。これでは飢えても当然だ。それゆえ、私たちは仕事に出るとき、道ばたに落ちている腐ったミカンの皮さえ拾って腹に入れた。
 ・私が連れ去られてから祖母は毎日泣き暮らし、ついには両目の光を失ってしまった。母親は息子を思うあまり、肺病に罹ってしまい、46年に亡くなってしまった。妻の楊玉節は、結婚してから一年も経たないうちに夫を連れ去れてしまい、家族全員の心情はどれほど悲痛なものだったかと思う。