李隆徳

川口113 〔李万福(子)の証言、2004年12月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・県城で小さな商いをしていた父は、1944年7月に県城で日本人に拉致され、縄で縛られて北関駅に閉じこめられた。
 ・北関駅に監禁されていた二百人余りの人たちは、有蓋貨車に押し込まれ、日本兵が扉に立って見張る中を、徐州を経て山東省の済南駅まで運ばれていった。貨車から下ろされて、新華院という大きな建物まで連れて行かれた。
 ・新華院の中で、父は苦難の限りをなめ尽くした。食べ物もろくに与えられず、行動の自由も全くなく、夜寝るときには身動きさえできなかった。動けばすぐに殴られるからだ。
 ・大阪では、父たちは日本人に率いられて埠頭まで行き、船から貨物を下ろす仕事をさせられた。その貨物はすべて日本が中国から奪ってきたものばかりだった。
 ・死ぬほど疲れる重労働なのに、食べ物はわずかしか与えられなかった。スープ一碗とマントウ一個だけの食事だった。朝早くから夜遅くまで働かされ、少しでも仕事がのろいと、すぐに殴られていた。全員が骨と皮ばかりにやせ細っていた。しかし、体力を超える重労働をこなさなければならなかった。
 ・日本にいた間に大変きつい仕事をさせられていたので、父の体はひどく痛めつけられていた。帰国してから、父は病の床に伏してしまった。亡くなるまで病が癒えることはなく、父には自分の食い扶持を稼ぐ力さえ残っていなかった。父は1978年に病没した。