李連営 [事業場名簿で李連菅]

安治川155 〔李国順・李国林(子)の証言、2005年10月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・父が日本に強制連行されたときの名前は李連営で、年齢は40歳だった。日本では155番の番号が付けられていた。その当時の住所の地名は陽武県といっていた。
 ・1944年7月ごろ、父は陽武県城の北関の市に行って商売をしていた。そのとき日本兵に拉致された。父は北関駅に閉じこめられ、翌日、拉致された多くの人たちと一緒に縛られて有蓋貨車に押し込まれ、日本人に見張られながら開封、徐州を経て済南の新華院まで運ばれていった。新華院では、様々な虐待や侮辱を受けた。1か月の間に死んだ人の数は数え切れないほどだったそうだ。その後父たちは1箇所に集められ、日本軍の将校から訓話を受けた。その将校は、みんなを仕事に行かせると言い。それから1人1人に服と綿毛布と靴が配られ、汽車に押し込まれ青島まで運ばれた。およそ400人余りの人たちが腕を縄で数珠つなぎにされて、青島まで運ばれた。汽車から降りてもまだ縛られたまま大きな広場に座らされた。
 ・2日後、日本に働きに行くために青島から船に乗せられ、丸7日かかり下関に着き、そこで船から降ろされた。全員が消毒され、風呂に入れられた後、今度は小さな船に乗せられて大阪の港まで運ばれた。
 ・船から降りると隊に分けられ、父は第4隊に入れられた。隊長は呉という人だった。仕事は、主には船から石炭を下ろすことで、大きな船から石炭を小舟に積み替え、さらに埠頭まで担いで上がった。毎日早朝から夜まで、1日10時間ぐらいの仕事量をこなさなければならなかった。しかし食事はほんのわずかで、朝は質の悪い小麦粉で作ったマントウが1個、昼は現場で握り飯1個、夜もやはりマントウ1個だけだった。
 ・綿入れの服もなければ掛け布団もなく、一銭の金も支給されたことはなかった。それでも日本の監督から殴られたり怒鳴られたりした。飢えと寒さにさいなまされ、疲労は極限にまで達し、父の身体はずたずたにされた。腰がだめになり、結核も患った。
 ・父は日本で重労働を強いられたために身体に障害が残り、家に戻ってからも働くことができないまま、30年の長きにわたってその病気が治癒することはなく、1977年11月に亡くなった。