李福起

川口139 〔李永亮(子)の証言、2005年10月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1943年7月、日本軍は原陽県を侵略し占領した。父は北関駅の近くで日本軍に拉致されて、縄で縛られて北関駅の大きな部屋に閉じこめられた。
 ・三日後に父は、監禁されていた百人以上の人たちとともに有蓋貨車に押し込まれた。貨車の中では日本兵が銃を構えて見張っていた。徐州を経て山東省の済南に運ばれ、大きな建物まで連行された。そこが新華院だった。
 ・新華院の中では、食べ物もわずかしか与えられず、着の身着のまま、殴られることもしばしばで、見張りが非常に厳しかったそうだ。夜寝るときは、話をすることも体を動かすこともできなかった。少しでも動くと殴られるからだ。大小便に行くのでさえ、大きな声で報告をしなければならなかった。
 ・汽車に乗せられて青島まで運ばれ、そこから船に乗せられた。船の中では船倉に積まれてある鉱石の上に座らされ、食べ物はトウモロコシの粉で作ったマントウだけだった。
 ・大阪でも、与えられた食べ物は飢えをしのげる量ではなく、やらされた仕事は命がけの仕事だった。少しでも手を緩めるとすぐに殴られていた。病気になっても治療はしてもらえず、そのまま病気で死んだ人たちもいたそうだ。父は飢えと寒さにあえぎ、殴られ続け、牛馬にも劣る生活を強いられていたのだ。
 ・父が拉致されてから、我が家は甚大な損失をこうむった。祖父と祖母は憤りのあまり病に倒れ、生活は困窮を極めた。父が家に戻ってきてからも、父は日本で働かされていた間にさんざん体を痛めつけられていたので、常に病気がちで、ずっと薬を飲んだり注射を打ったりという状態が続いていた。父は1993年9月27日に六十九歳で亡くなった。