李玉祥  

築港013 〔本人証言1996年8月17日、北京市で聞き取り〕
     〔本人証言1997年8月12日、北京市で聞き取り〕

 ・1944年の確か旧暦の7月7日の夜、盧溝橋の南の方の長辛店27機関車工場で夜勤が終わって、勤めていた発電部門の技術を教えてくれる師匠に当たる人の家に行った時、日本人が1人、それから中国人が1人、軍犬を連れてやって来た。その時師匠の娘婿がその師匠の家に居たが、私と師匠とその娘婿の3人共が手錠を掛けられて警務段(鉄道沿線警備隊)に連行されてしまった。連行された翌日から尋問が始まった。通訳を通して、おまえたちは工場の中の物を盗んだだろうと。いや、知らない、盗んでいないと言うと、拷問された。その拷問というのは、長椅子に仰向けに縛られ水道の蛇口のところに連れて行かれて口から水を入れる。次にその日本人は手動の発電機のような物を持ってきて、電線を私の親指2本に結び付けて電気を流す拷問をした。何も知らないから、私は知らないと言い続けた。
 ・石門捕虜収容所の中に入ると、まず1列に並ばされた。それから服を全部脱げと言われ、脱ぐと今度は前に3歩出ろと言われた。3歩出ると後ろに置いた服は全部持って行かれた。それから大きなバケツのような物が運ばれて来て、ボンプのような物から水が、我々の体に掛けられた。匂いがしたので消毒液だと思った。
 ・毎日が訓練だった。収容所の規則や規律に従うよう、しつこく言われた。一番言われたのが皇軍に従えということだった。2週間ぐらい訓練させられ、それから選ばれて軍服を着せられて2部の方に移された。
 ・収容所の西の角のところが死体置き場だったと思う。夜になると馬車が来て、遺体を部屋から運び出し平たい台の上に遺体を積んで紐で縛って運んでいった。私たちは遺体を馬車に乗せる当番に1回なった。
 ・ある朝石門を出た。駅に行くまでは日本兵がやはり銃を持って厳重に監視していた。石門から列車でどこにも止まらず塘沽に着いた。
 ・塘沽から船に乗った。洋上で我々が用を足す時には、船の先の柱のところに紐で縛った板が外に向かって突き出してあったが、チェーンのところを乗り越えて、その木の板の上に立って海に向かってやらされた。体の弱っている人や船酔いをしている人が落ちた。
 ・大阪に着いて、主に船から荷を下ろすことで、下ろす物も時期によって変わっていったが、一番最初は塩、次には石炭、当時は華北政府では銀貨を使っていたが銀貨や銅貨を溶解した物を次には下ろしていた。最後にはいろいろな銅製品、例えば香炉とか洗面器とかを下ろした。それらを詰めてある木の箱や麻の袋にも、中国から来た物だという印が付いていた。
 ・船の上の仕事で、日本人の監督の言う通りやらなかったり間違ったりした時には、殴られたり、バカヤロウ!と怒鳴られたりした。
 ・食事も非常に悪い。ゴマの油を取ったあとのカスとか豆カスとかを、「満州」からきた非常に悪い米と混ぜてそれを食わせる。
 ・私と一緒に27工場から強制連行された私の師匠・張志剛(別名簿18[張振剛]の可能性あり)は空襲で手を腕の肉を焼かれた。傷を負った最初の頃は包帯なんかも巻いていたが、あとではどうしていたのか分からない。当時はみんなバラバラで、自分の命さえどうなるかわからない状態だったから。張さんは帰国後治療をして職場に復帰した。もともと旋盤工だったが、戻ってからは直接の仕事には就けないので、労働者たちを指導するようなことをやっていた。