李伝明 [事業場名簿で李傅団]
藤永田056 〔本人証言、2001年10月、民権県で聞き取り(張忠杰)〕
・1943年4月、開封に仕事を求めに行こうと民権県の県城まで行ったところで日本軍に拉致され、大きな建物の中に監禁された。二十二歳だった。数日後に同郷の張宗思も同じところに監禁された。そこでは非人間的な虐待を受け、餓死状態に陥れられた。
・十日後に民権駅から汽車に乗せられ、天津の塘沽に運ばれた。汽車から下ろされ、四キロの道のりを港のほうまで歩かされ、大きな建物に閉じこめられた。約二十日間、我々百人余りはまるで犯罪者のような非人間的な扱いを受けた。毎日空腹で、水は与えられず、外に出ることも許されなかった。見張りの者たちの言うことを聞かなければ、食事を取り上げられるばかりか、めった打ちにされた。目の前で何人もの人がめった打ちに遭って殺されていくのを目撃している。ある人は殴られるのに耐えきれず入水自殺した。
・汽船に乗せられて日本に連れて行かれた。船中では十一日間、ひからびたマントウを与えられるだけで、水は飲めなかった。日本人に従わない人はめった打ちにされていた。
・大阪では、三人の警官が我々を造船所まで引き連れていった。朝早くから夜遅くまで牛馬のごとくこき使われ、豚や犬が食うようなものを食べさせられていた。夏には着替えがなく、冬には綿入れがなく、殴られ怒鳴られ続けていた。飢えと寒さのために、終始死線をさまよう状態だった。二年半の月日を苦しみ抜いた。
・日本で痛めつけられた体と心の傷痕は、今になっても癒えることはない。私が強制連行されたことにより、家族の生活にも甚大な被害を及ぼした。