王徳祥[事業場名簿で王徳香]

築港192 〔王順堂(子)の証言、1996年4月28日。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・(192王徳香、195魏金林、196趙大雪の3人は満城県(河北省)の同じ村出身で保定市(隣)まで八路軍に塩を運んで行って帰ってくる途中、小汲店(河北省保定市)で拉致された。そのまま大阪に連行され同じ状況におかれ、日本の敗戦後連れだって帰国できた。3人の共通した被害事実として以下記す。)
 ・1944年6月、私たち四人は、八路軍のために保定に塩を運びに行った帰り道、近郊の小汲店(保定市内)あたりで休憩していたとき、保定警務団の日本兵によって保定警務団に連れて行かれ、ひどい拷問を受けた。様々な方法で痛めつけられた。数日後、石家荘の強制収容所に送られ、毎日コウリャン飯を、それもわずかな量しかない。少しでも従わない場合は、すぐにこっぴどく殴られる。まったく中国人を人間扱いしない。十日ほどそこに入れられていた後、塘沽に運ばれ、塘沽で食べさせられたものは、コウリャンの粉で作った生煮えのビンズだった。
 ・その後、塘沽から汽船に乗せられて、日本の大阪に連れて行かれた。大阪の築港株式会社で、汽船から荷下ろしをする仕事をさせられた。いつも空腹で、服も配られなければ、靴も配られなかった。私たちは、破れた麻袋で体をくるみ、服の替わりにしていた。ゴムを足裏にあてがって、縄で縛って靴の替わりにしていた。少しでもいいかげんなところがあると、すぐに現場監督が殴りかかってくる。まったく中国人はブタやイヌよりひどい扱いを受けていた。
 ・1945年11月に帰国した。塘沽で汽船から下り、汽車に乗って天津の北洋大学に行き、そこには十日ほどいました。賃金が出るといううわさもあったが、結局、賃金は払われなかった。国民党の兵士が私たちを兵隊にしようとしたが、私たちは兵隊になりたくなかったので、すぐに汽車に乗って家に帰っていった。
 ・私たちがあのとき連れ去られたために、どの家も家族全員が大慌てをした。人を訪ね、つてを頼り、消息を尋ね、田畑を売り、家の財産を質に入れた。結局、何の消息も得られず、人はいなくなり、財産もなくしてしまうという最悪の結果になってしまったのだ。