王三子
藤永田060 〔王志海(子)の証言、1996年8月、北京市で聞き取り〕
・1944年4月、日本軍が四つの県を包囲して殲滅戦を行ったときに、民兵だった父は捕虜となり、広平県の憲兵隊に連れて行かれた。憲兵隊の隣にあった学校に、たくさんの人が監禁された。日本軍は食べ物も水もくれなかったので、風呂の浴槽に溜まっている水を、監視の目を盗んで飲んだり、服にしみ込ませてその水分を吸ったりした。同じ村の王さんは、食べ物を差し入れてくれる家族がいなかったので、四日目に亡くなった。
・広平県の憲兵隊に一ヶ月以上監禁されて、トラックで邯鄲のほうへ移された。移動の途中で七、八人が亡くなった。あの暑い時期に一ヶ月以上も満足に食事もとれず、水さえ飲ませてもらえなければ、衰弱するのは当たり前だ。
・邯鄲から有蓋貨車に乗せられて塘沽に送られた。八十数人が一緒に詰め込まれた。収容された建物の周りには電気の通った鉄条網が張り巡らされていた。河南省からも二百人以上送られてきて、合計三百人近い人がいた。
・日本へ行く船に乗せられる前夜、逃亡する人が出た。逃げ出した人は、鉄条網で感電死したり銃で撃たれたりして殺され、結局一人も逃げ出せなかった。父は気性の荒い人だったので、嫌だったらすぐに逃げようとする性格だったが、年上の靖官生さんになだめられて逃げなかった。
・船中で一人死んだ。監視兵に殴られていた。収容所の生活で体力を消耗しているうえに、こっぴどく殴られて、結局夜になっても戻ってこなかった。海に身を投げたのかもしれない。船中での食べ物は。カビの生えたトウモロコシの粉を湯で溶いたもの、粥のようなものだった。
・藤永田造船所に着いてからようやく作業着一枚が配られたが、再生綿で作った弱い繊維の服なので、すぐにボロボロになった。一枚だけで着替えはなかった。
・藤永田で、父はリベットを作る仕事を一年以上ずっとやらされていた。日本人の監督がみんなを支配していたが、同じ村の王福運という人は仕事の能率が悪いということで、監督に革靴の底で顔を殴られ、血だらけになった。
・食事は非常に悪かった。トウモロコシと小麦粉の粥のようなもの、ダイコンの葉っぱを干したものを小麦粉と混ぜて食べさせる。労働がきついので、これではどうにもならないということで、最後には要求を出した。その後は、朝と昼は黒い小麦粉で作ったマントウ、夜は米の粥になったが、量が依然として少ないので空腹状態は変わらなかった。