王坤峰 [事業場名簿で王昆峯]

川口152 〔本人証言、2002年2月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年8月、陽武の県城で日本人に拉致され、北関駅に連れて行かれた。二十三歳だった。北関駅にはたくさんの人たちが監禁されていた。その後、私たち全員は有蓋貨車に乗せられて、済南の新華院に送られた。
 ・新華院に連れていかれ、そこに二ヵ月ほどいたが、その間、日本人からさまざまな抑圧を受けた。いつも殴られたりののしられたりして、あらゆる虐待を受けていた。病気になっても全く治療はされなかった。毎日数十体の遺体が荷車で運び出されていった。ある人に至っては、まだ完全に呼吸が止まってはいないのに、死体と一緒に運び出されて谷に投げ込まれた。そのまま犬やカラスに食いちぎらせるとは、なんと残忍非道な話だろう。
 ・その後、汽車で青島まで運ばれ、そこから日本に行く船に乗せられた。船の中では、生のトウモロコシの粉を食べさせられた。多くの人が船酔いに苦しみ、嘔吐はとてもひどいもので、動ける人などいなかった。それでも日本人は厳重に見張っていた。
 ・川口でやらされた主な仕事は、石炭を下ろすことだった。大きな船から小舟に下ろして、別の場所まで運ぶのだ。ときには穀物を下ろすこともあった。大阪で働かされている間、ずっと空腹で、しかも百キロほどの石炭を天秤棒で担がなければならなかった。朝早くから働かされて、夜になるとようやく終わっていた。一日十数時間の労働だった。一回の食事が一個のおにぎりか一個のマントウで足りるはずがない。病気と飢餓が重なって、数人の人が日本で亡くなっている。
 ・帰国して、家に戻ってから初めて知ったことは、私が連行された後、父が日本軍に殺され、妹が行方不明になり、母は精神に異常をきたして、物乞いをしながら生き延びているという事実だった。我が家はすでに崩壊していたのだ。