王希堂 [事業場名簿で王喜堂]

築港[別]15 〔梁樹紅(孫)の証言2002年4月7日、大阪で聞き取り〕

 ・家は河北省磁県の中馬頭村にあった。1944年7月18日、祖父はいつも通りにてんびん棒を担いで市の立つ2キロ半離れた場所まで粟ガラを売りに行った。その途中で日本の憲兵に出くわして17人が捕まってしまった。憲兵は縄で捕まえた17人をがんじがらめに縛りあげ体中が傷だらけになるほど殴って、良民ではなく八路軍や共産党であると認めさせようとした。認めなければまた殴られた。
 ・その日のうちに17人は汽車に押し込まれ、石家荘の日本の警察署まで連れて行かれて尋問を受けた。石家荘の警察署には他の土地で捕まえられた人たちも合わせて61人が一緒に閉じこめられた。3日間続けてめった打ちにされ拷問を受け、最後には全員が共産党や八路軍に通じているという名目の罪状を着せられた。憲兵は彼らを銃剣で突きながら縄で腕を縛ったまま石家荘の南兵営(石門捕虜収容所)まで連れて行った。
 ・44年に捕まった時、私の祖父は36歳だった。家には祖母と母がいた。母はその時9歳で祖母は身ごもっていた。祖父が連れ去られたあと、祖母は家を売り払ってあちこちの人に頼み込んで祖父の行方を探し求めた。母はまだ小さくて重労働をすることはできない。農民は土地によって生活しているのだから、その源がなくなるということは農民にとっては天が崩れ落ちるほどの大事件だ。不運なことはつづくもので,その4ヶ月後に祖母は男の子を産み、家には一粒の穀物もないが、祖母は産後すぐなので外で働くわけにはいかない。母は畑に行って野草を掘り出したり、わずかなトウモロコシの残り株を拾ってきてたきぎ代わりにしたりした。哀れにも9歳の母が一家の生活の重責を担ったのだ。母は力の限りを尽くした。しかし全員の命を守ることはできなかった。母親に食べる物がなければ赤ん坊に与える乳は出ない。しばらくして赤ん坊は息絶えてしまった。母は村の出入り口まで走って行って,青空に向かって大声で叫びました。「父ちゃん!父ちゃん!どこにいるの。早く帰って私たちを助けて!」。祖母は飢えによるたてつづけの病で起きあがれなくなり、泣いて泣いて涙は涸れ果てついに目が見えなくなった。悔しさと苦しさのあまり脊椎が変形してしま、体には終生治らぬ障害が残った。祖母はつらさを忍んで9歳の母を地主のトンヤンシー(革命前の旧社会で,将来息子の嫁にするために子どもの時から引き取られ,働かされた女の子のこと)として売り渡した。我が子を4、5斗の穀物に換えたのです。なんという哀れな親心でしょう。