王福申 [事業場名簿で王臭]

藤永田070 〔本人証言、1996年1月、保定市で聞き取り〕

 ・1944年9月、元寨村にいたときに日本軍に包囲されて捕まった、私は民兵だった。広平県の学校の中にあった刑務所のようなところに三十八日間入れられた。そこから縛られたまま邯鄲に連行され、汽車に乗せられて塘沽に運ばれた。
 ・四日後に船に乗せられ、まる十一日間船倉にいた。船の中での食事はトウモロコシがほんのわずかだけ。水もほんの少ししかくれなかった。餓えと渇きて死んだ人がいた。船には百六十数人が乗せられたが、日本に着いたときには百五十六人しかいなかったと思う。
 ・船中では、用を足しに行くときは大隊長に報告しなければいけないことになっていたが、報告しなかったために殴られて死んでしまった人がいた。その死体はすぐに海に投げ込まれた。
 ・大阪では藤永田造船所で働かされた、看板が掛かっていたので会社名が分かった。食事は薄い粥と野菜の葉みたいなのが入っている汁だけだった。これではとてもみんなの体力がもたないということで、食事の改良を要求した。その後、三等級の黒っぽい小麦粉に変わり、小さいマントウが朝一つ、昼二つ、夜一つになった。
 ・大阪で、病気に罹って死んだ人が十数人いたと思う。遺体は焼いて骨にしたが、その遺骨がどうなったかは分からない。死んだ人はほとんどが河南省の人だった。