王保中 [事業場名簿で王保銀]

藤永田071 〔本人証言、1996年8月、北京市で聞き取り〕

 ・1944年5月に村が包囲された。私は農民だったが、そのとき畑に逃げた。捕まえられて広平県に連れて行かれた。水も飲ませてもらえず、風呂に使った水を飲んだ。広平県の憲兵隊に四十日間ぐらい監禁されていたが、食事は出なかった。母が毎日ご飯を届けてくれたので生き延びられた。
 ・その後、邯鄲を経て、列車で塘沽に運ばれた。塘沽の収容所では十二日間、トウモロコシの粥を飲まされていたが、ハエなどが入っていて、とても食べられる代物ではなかった。夜寝ている間は、ちょっとでも動くとひどい目に遭わされた。便所に行きたいときは看守に報告しなければならない。看守が気に入らなければ行かせてもらえなかった。
 ・暴動が起こったときに私が見たのは、機関銃で撃たれ、まだ息のある人まで一緒にゴザにくるんで運び去る光景だ。私も遺体を片付ける作業を命じられ、溝に投げ込むように言われた。暴動の翌日に、日本に行く船に乗せられた。
 ・藤永田では、リベットを打つ前の焼く作業をやらされた。現場の食事はマントウ二個とタクワン一切れだけ。お茶はないので水道の水を飲んだ。宿舎には三、四人の警官が付いており、入り口で見張りに立っていた。周囲の塀は二メートルぐらいの高さで、その上に三本の電気鉄条網が張ってあった。