王永福

築港198 〔王釗(子)の証言、1993年4月10日付け河北大学に送られた手紙。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・父は1943年に日本の報告員をしていた。表向きは日本のために奉仕していたのだが、実際はひそかに八路軍のために働いていた。日本軍は当時、馬頭鎮(今の河北省邯鄲市磁県馬頭鎮)に拠点を置いていた。当時は、各村に一人ずつ報告員がいました。大馬庄村(磁県)の報告員が私の父だった。隣の太平村の報告員は閻貴清、柳児堂村の報告員は胡勲、南豆公村の報告員は張希増、北豆公村の報告員は安汝貴、馬頭鎮の報告員は張連、辛庄堂村(以前の張庄村)の報告員は葛玉田、南左良村の報告員は得慶連だった。
 ・ある日、八路軍の馬頭区の区長である姜明亮から日本軍を拠点から誘い出したいという作戦に協力したことで、父は日本軍からすさまじい拷問を受けた後、監獄に入れられた。数日後、各村の報告員が全員集められ、合わせて十七、八人はいたが、一人一人が細い縄で縛られ、そのあと太い縄で数珠つなぎにされた。その後、汽車に乗せられて石家荘に引っ立てられて行った。石家荘に到着後、南監獄の水牢に入れられた。その迫害は耐え難いものだった。
 ・大阪では主には汽船からの荷下ろしをさせられたが、一時期は炭坑で働かされた。具体的に何という炭坑だったか、はっきり覚えていない。
 ・帰国後、私たちが父の体の傷痕を見てその話題に触れると、父は涙を流しながら声を上げて泣き出すのだ。父は私たちに、父たちの苦難をしっかり胸に刻みつけてほしかったのだろう。実際に父の死亡原因は、やはり労工として働かされた頃の体への負担が病気のもとになったと思われる。