任俊

川口037 〔本人証言、2001年5月、偃師市で聞き取り(張忠杰ら三名)〕

 ・1943年7月7日、日本軍との戦闘中に捕虜になった。私たちは腕を縄で縛られて偃師の県城に連行され、そこから洛陽の西宮兵舎に送られた。
 ・西宮兵舎にはすでにたくさんの人が監禁されていた。一日二百グラム程度の穀物すら与えられない状況の中で、亡くなる人が続出した。
 ・半月後、私を含めた若くて体格のいい人間が千五百人ほど選び出され、縄でつながれて温県まで連れて行かれた。そこから有蓋貨車に乗せられて、山東省の済南に運ばれた。
 ・済南の新華院には二十日余り監禁されていたが、昼間は敷地の外に出ることが許されず、夜は部屋の中に閉じこめられていた。毎日二食で、毎食がトウモロコシの粉で作ったウォトウ二個だった。腹ぺこで、着の身着のまま、殴られることもしょっちゅうだった。
 ・日本に行く船に乗せられると、船倉にはたくさんの岩石が積まれていた。私たち八百人はその石の上に座らされた。船上での十一日間は、生のトウモロコシの粉とニンニクで飢えをしのいでいた。
 ・大阪では、埠頭で鉄の塊、木材、白砂糖などを下ろす仕事をさせられた。朝は6時に起こされて、一人一個ずつ、質の悪い小麦粉で作ったマントウを食べ、すぐに仕事に行かされた。昼食も同じだった。暗くなるまで働かされていた。いつも腹ぺこで、みんなは骨と皮ばかりに痩せこけていた。それなのに、ゆっくり仕事をしていると日本の監督にすぐに見とがめられて、殴られていた。
 ・仕事をさぼったり、ちゃんと仕事ができなかった人は、殴られたり蹴られたりした。殴られているのを見たことは何回もある。
 ・日本に着いてまもなく死んだ人が一人いたが、名前は知らない。もう一人、天津に戻ってから死んだ人がいる。