毛淵林 [事業場名簿で毛月秋]

安治川158 〔本人証言、原陽県で聞き取り、2000年5月整理(張忠杰)〕

 ・私は1944年7月に県城で日本軍に拉致された。拉致されてから2日間は県城北街の小さな駅に監禁された。その後、有蓋貨車に押し込まれて、日本兵に見張られながら済南の新華院に運ばれた。
 ・新華院に着くと全員が風呂に入れられ、消毒されてから衣服を支給された。その2日後から仕事が始まった。山の上で穴を掘り、ガソリンの入ったドラム缶を埋める仕事で監視は厳重だった。ずっと空腹状態で働かされていた。1ヶ月余り経って9月になると、今度は青島まで運ばれてそこから日本に向かう船に乗せられた。12日間ほどして船は大阪の港に接岸した。
 ・船を降りてから安治川労工所に行かされた。数日もしない内に仕事が始まった。毎日日本人に連れられて埠頭まで行き、荷役の仕事をやらされた。朝早く連れて行かれ、夜になってから労工所に連れ戻された。昼食は現場で食べ、1日に大体10数時間働かされていた。私たちの仕事が一番きつかったと思う。私は第3・4隊だったが、1日中石炭を下ろす仕事をさせられていた。大きい船から小さい木造船に石炭を下ろし、その木造船から更に石炭を地面に下ろす仕事だった。私たちの生活は、毎日朝は1人に2個のマントウが配られ、夜も2個のマントウだった。仕事に行かない日は1個しか与えらなかった。私たちが住まわされていたのは木造の2階建てで、上の階と下の階の両端に扉があった。冬の夜は寒さが厳しく、とても眠れるものでなかった。それでも衣服の支給はなかったので、毎晩我慢に我慢を重ねながら長い夜をしのいでいた。
 ・中国に船でもどると、徒歩で天津の北洋大学に行き、帰国するときに持って帰った同胞の骨箱を北洋大学に置いた。