賈二小

築港004  〔賈換朝(甥)の証言、1995年4月23日付け河北大学に送られた手紙、1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・私の二番目の叔父は、当時まさに働き盛りの農民(家で労働点数を稼げる者)だったが、1944年8月、日本軍に強制的に連れ去られてしまった。まず元氏県(河北省)の憲兵隊に連れて行かれて尋問され、そのあと石家荘南兵営の労工訓練所(石門俘虜収容所)に送られた。無理やり腹一杯に水を注ぎ込まれてから手で押さえつけられて吐き出させられたりと、様々な拷問を受け、苦しみをなめ尽くした。叔父は家の主要な労働力だったから、容易に分かるとおり、叔父が日本軍に拉致された後の家族の生活は困窮を極め、二度と鍋の蓋を開けることがないほどの状態になった。
 ・(大阪市港区八幡屋四十一番地で)労工としての労働環境(衣食住)は推して知るべし、満腹になることなどなく、飯には砂が混ざっていた。寒さを防ぐような服はなく、まったく人が住めるような場所ではないようなところに入れられていた。狭くて臭くてじめじめしていた。賃金など話にもならない。一文もなかった。
・負担の大きい強制労働のせいで、帰国後も叔父は足腰を痛めてしまった。雨の降る日は痛くてどうしようもなかった。