黄運擁 [事業場名簿で不明]

藤永田 〔本人証言、2007年3月、寧陵県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1943年のある日、柘城で塩を売る小さな商売をしていたところ、日本兵に拉致されて、柘城県内の建物に閉じこめられた。家の者たちは何も知らなかった。翌日また十数人が拉致されてきたが、全員がこの県の青壮年だった。夜になると、逃げられないように縄で縛られた。
 ・十数日の間に拉致されてきた百人余りの人たちと一緒に、商丘駅まで連れて行かれ、有蓋貨車に乗せられ、徐州に運ばれた。徐州で一晩留め置かれ、翌日の早朝また貨車に乗せられて、塘沽の強制収容所まで連れて行かれた。貨車から下りると、日本兵たちに銃でこづかれながら、三道崗を経て大きな建物まで歩かされ、そこに閉じこめられた。ここでの一ヶ月余り、毎日殴られたり怒鳴られたり、夜寝るときでさえ目を開けていたら殴られた。夜になると、脱がされた衣服は全部一箇所に集められ、逃げられなくされていた。大小便に行くにも大きな声で報告しなければならず、身動きも許されなかった。
 ・同郷のある人が、夜寝るときに蚊に咬まれたので、手でサッと払ったところ、それを見張りの日本兵に見つかってしまい、逃亡しようとしたと決めつけられて、棍棒でめった打ちにされた。その人は皮が裂け肉がはみ出すほど殴られ続け、息絶え絶えになった。
 ・あるとき、数人の人たちが一緒にちょっとだけ会話したところを見張りの日本兵に見つかってしまい、集団逃亡を企てたと決めつけられて、翌日その数人は一緒に縛り上げられて引きずり出され、銃殺された。
 ・その強制収容所では、殴られて死ぬ人、飢えて死ぬ人、病気で死ぬ人が続出した。語りきれないほどだ。特に食べ物がひどかった。毎食、生煮えのトウモロコシのマントウが一個だけ。多くの人が食べた後に腹を下し、まっすぐ立てないほどだった。病気になっても治療はされず、重病になると病人部屋に引っ張っていかれ、死ぬまで放置された。
 ・大阪の藤永田造船所に入れられた翌日には、仕事を割り振られて船上での仕事が始まった。私は若かったので、いつも重労働をさせられた。材木を運んだり、リベットを打ったり、毎日疲れ切って腰が伸ばせないほどだった。
 ・食べ物はほんのわずかで、毎食が小さなマントウ一個だけ。おかずさえ付かなかった。冬になると服が薄っぺらなので、みんなセメント袋を拾ってきて体を覆い、寒さに耐えた。歩くとガサガサと音がした。暖を取るためのものは何も与えられなかった。残業はあっても食事の追加はなかった。毎日腹を空かせているのに、きりもなく働かされた。
 ・ある日のこと、同郷の一人が、日本の現場監督が目を離したすきに逃げ出した。逃げて三日経ってから捕まえられ、戻されてきた。日本人は通訳を通して、なぜ逃亡したかと聞いた。彼は、八十何歳かの老母が一人で家にいるが、誰も面倒を見る人がいないので逃げ出したかったのだと答えた。その人は二度と逃げられないようにと、監督からめった打ちにされた。哀れにも、その人は数日も経たないうちに作業現場で亡くなった。
 ・続いて、李という人も家が恋しいあまりに病気になり、死亡した。当時、商丘市以外にも民権県を含めると、合わせて七十人余りの人が強制連行されたが、大阪の造船所で亡くなった人は七、八人いる。