高連蔭

築港100 〔本人証言1994年12月30日、石家荘で聞き取り〕
   〔本人証言1995年8月22日、保定で聞き取り〕
     〔本人証言1995年8月付け手紙(河北大学経由)〕

 ・1944年6月29日(農歴)に日本軍に捕まえられた。私はそれ以前に共産党に入って、村の共産党の副書記と治安委員だった。私のことが村の警備隊に知られて、同じ村の2人が3人の警備隊を連れて私の家に私を捕まえにやってきた。捕まえられて村の中にある関帝廟に連れていかれて、両手を後ろ手に縛られ煙草の煙をすわされるという拷問を受けた。そして、「村の共産党支部の書記は誰なのか?」「村長は誰なのか?」と拷問して名前を聞き出そうとした。しかし、私はなにも言わなかった。
 ・それで、私を無極県の日本軍の警備隊に連行した。そこでまず、第一回目の拷問を受けた。棒で殴られて、頭が割られ、血がたくさん流れた。今でも頭に傷跡が残っている。その時に背中も殴られて、背骨が変形してまがってしまった(現在も変形は治っていない)。2、3日たってから2回目の拷問をされた。その時は、板の上に乗せられて鼻をふさがれ、口から水を流し込まれた。それからまた2、3日たってまた拷問された。その時は、電気の通った針金を身体につけられて拷問された。そこには21日間入れられていた。そしてそこから石家荘の南兵営(石門捕虜収容所)に連れて行かれた。
 ・南兵営には病棟があった。ここに入れられると、病人は何も治療を受けないで死を待つばかりだ。毎日死人が引き出されて行くのを見ることがある。馬が引く荷車を一人が前で制動し、横に縄を掛けて何人かで引き死体を運んでいった。10数人の死体が横向きに並べられ、着物はすっかり剥がされ丸裸で荷物のように積み込まれていた。死体はどこへ運ばれるのか私には解らなかった。
 ・大阪で運んでいた荷物は麻袋に入っていて、だいたい100キロある。2人でそれを担ぎ運ぶ。船からおろすことも運び入れる作業もあったが、おろす方が多かった。そばに監督がついているから休ませずにずっと作業を続けさせられた。
 ・大阪に着いて最初の頃には、食糧は約300人に対して最初は25キロの粗末な小麦粉が10袋は与えられていたが、だんだん量が減ってきて、しまいには4、5袋しか与えられなかった。食糧があまりないし、寒さのために、仕事ができなかったのだ。
 ・大阪の寒い天候のもとで仕事をさせられたが、着物がないから塘沽で渡された布団を身体にまいて仕事をした。
 ・我々の帰国が決まってからも、何ヵ月も待たされた。
 ・大阪から帰国して自分の家に帰ってみると、私の伯父70余才(私は幼少の時から伯父に育てられた)は私を救い出すために家中のお金を使い果し、その気疲れから病気になりずっと床に臥せていた。母は元から失目していたので生活は悲惨を極めていた。
 ・財産は一切盗られてなくなっていた。自分の妻も他の家に嫁いでしまっていた。