高文声 [事業場名簿で高文昇]
藤永田015 〔本人証言、2008年4月19日付け高文声の「陳述書」より抜粋〕
・十六歳で八路軍が率いる豫東独立連隊に看護兵として入隊。1944年2月、十七歳で傀儡兵に捕まり、民権県の警察局に放り込まれた。看守から両足に足枷をはめられて、木の檻に閉じこめられた。食べ物はコウリャンの粉で作ったウォトウが一個だけ。夜になると看守は私の両手を縄でくくりつけ、逃げ出せないように、座ることはできても立つことはできない状態にした。
・拉致されてきた多くの民間人とともに、田庄の駅まで護送され、汽車が来るのを待たされた。そこには百人余りの拉致されてきた人々がいた。二人の日本人と数十人の傀儡兵が銃を持って監視していた。汽車が来ると、まるで豚を追い込むように汽車に乗せられた。汽車が動き出すと同時に、ある人が汽車から飛び降りて走って逃げたが、監視兵が銃を乱射して撃ち殺した。
・汽車が徐州に着き、囲いのある敷地に追い込まれた。見張りは厳重で、用を足すにも報告しなければならず、監視兵があとをついて来た。その決まりを守らなかった人は、監視兵から銃床でこっぴどく殴られていた。
・夜が明けてまた汽車に押し込まれた。汽車から数人が逃げ出した後、日本人は監視兵を通じて私たちを四人一組に組ませ、互いに見張り合うようにさせた。もしも一人が逃げ出せば、あとの三人が殴られるという仕組みだ。汽車は天津に着き、そのまま塘沽の海岸に向かった。汽車から下ろされ、海のそばにある強制収容所に入れられた。三重の見張り所を通り、三重の外堀を渡り、三重の鉄条網を抜けて、ようやく中に入るというような大きな建物だった。
・昼間は屋外に出ることが許されず、夜は衣服を脱がされ素っ裸で地面に寝かされた。目を開けることも許されなかった。目を閉じていないのが見つかると、逃げようとしていると見なされて、すぐに棍棒で殴られた。二人が顔を寄せて一言でも言葉を交わすと、すぐに外へ引きずり出されてめった打ちにされた。
・ひどい場合には、外に引っ張っていかれ、逃亡犯だと日本人に報告されて、即刻、海辺で銃殺されるか首を切り落とされていた。ある青年は素っ裸のまま両手を縛られて引っ張っていかれ、太陽が照りつける中を電柱にくくりつけられた。午後になって砂浜まで引きずっていかれ、銃殺された。
・民権県の楊金榜さんは、裸で床板に寝かされていたある夜、蚊にかまれて寝付けず、手で蚊をたたいているところを監視兵に見つかり、数人がかりで屋外に引っ張っていかれた。電柱にくくりつけられた楊さんは、監視兵から「逃げようと誰に合図していたんだ」と聞かれ、「逃げようとしてたんじゃない。蚊をたたいていただけだ」と答えた。監視兵はその言葉を嘘と決めつけ、水で濡らした竹箒で楊さんの背中をめった打ちにした。そばで眺めていた日本人が中国語でこう言い放った。「中国人はいくらでもいる。何人死んだってどうってことはない」。二ヶ月余りの間に、毎日四、五人の人たちが銃剣のもとで無惨に殺されていった。
・ある人が、収容所のそばを流れる大沽川の川べりまで逃げて、川に飛び込んだのだが、追いついた監視兵に引き上げられてしまった。二人の日本兵がやって来て、ものも言わずその人を地面に蹴り倒し、何度も蹴り上げた。今度は木の板でその人の頭を殴りつけた。しばらくして二人の炊事兵が呼ばれ、炊事兵はその人を筵にくるんで縄で縛り、担ぎ上げて行って生き埋めにした。
・暑い日が続き、多くの人が赤痢に罹ったような状態になった。下痢をしたり胃腸カタルになった人々を、日本人は病人房に入れさせた。病人房は狭い空き部屋で、その内部には尿や大便があふれており、そこに入れられた病人の大部分が、二日後には死人になっていた。伝染病に掛かった病人は、もがき苦しみながら死んでいった。死体が毎日のように外に担ぎ出され、砂浜に捨てられていた。私も赤痢のような状態になっていたが、無理やり元気を奮い起こして、絶対にみんなから隔離されないよう、何が何でも病人房には連れて行かれまいと必死だった。
・ある夜、隣の6号房で暴動が起こった。日本兵と監視兵が機関銃を掃射して鎮圧した。6号房にいて逃げ切れなかった人々は、房の外の草地や塀の隅で射殺されていた。太陽が昇ってから、日本兵は私たちに死体を運び出させた。負傷してまだ生きている人々も砂浜まで引きずっていかれ、そのままほったらかしにされた。
・汽船に乗せられて日本の大阪市に運ばれていった。船が出航してから三、四日経った強風の吹く夜、一人が海に飛び込んで自殺した。その人は病気だったこともあり、恐怖心から、いっそ死んだほうがましだと思ったのだろう。
・船が大阪に着き、藤永田造船所というところで働かされることになった。三日目の夜、日本の警察が点呼をして、一人足らないと言いだした。その二日後に、逃げ出した李登起さんが郊外で警察に捕まり、連れ戻されてきた。民権県の人で三十歳ぐらいだった。逃亡の理由を聞かれ、家には八十歳になる老母が一人でいて、誰も面倒を見てくれる者がいない。飢え死にしないか心配で家に帰りたかったのだと答えた。罰として一切食事を与えられなくなり、李さんは数日も経たないうちに死んでしまった。
・王玉才という人も藤永田で死んだ。王玉才とは一緒に働いていたが、仕事中にうつむいてしゃがみ込んだりすることがよくあった。曹嗷という人も藤永田で死んだ。曹嗷が病気だったことは知っていたが、何の病気かは分からない。人が死んだことを聞くたびに、私は恐怖に震えた。それは人ごとではなく、いつ自分に番が回ってきてもおかしくなかったからだ。
・藤永田で働かされている間じゅう、言葉が分からないので、口のきけない人間も同然だった。親方は、仕事の命令はすべて手真似でぞんざいにやっていた。虐待も受けたし、殴られたり怒鳴られたりするのは日常茶飯事だった。
・あるときは残業が二時間もあった。腹ぺこのままだった。あるときは、海岸で海草をすくい上げて口に放り込んだ。にがくても腹に入ればそれでよかったのだ。
・冬になると北風が吹いて、耐え難い寒さだった。現場に落ちているセメント袋を拾って、頭の部分に一つ穴を開け、両側にも一つずつ穴を開けて、体を覆った。少しでも寒さを防いで仕事ができれば、それで良しとするしかなかった。
・日本人と私たちは食事も食堂も違っていた。日本人の食事は弁当箱に入ったものだった。私たちは別のところで中国人が作ったものを食べていた。食事は、朝は黒っぽく小さいマントウが一個、昼は二個、夜は粥だった。いつも腹一杯になることはなかった。
・飛行機が飛んできて爆弾を落としたときのことは、忘れようにも忘れられない。ある日の午前、働いているときに警報が鳴り響き、あっと言う間に数十機の飛行機が頭上にやって来た。私はすぐに防空壕に駆け込んだ。そこから上のほうを見上げると、カラスの一群が飛んでいるかのように、ものすごい数の爆弾が落下してきていた。一瞬の間に数メートル先に爆弾が一つ落ちて、私たちのいる防空壕の入り口が塞がれてしまった。三人で塞いでいる土を手で押しのけ、はい出せるほどの穴を開けた。外に出てから懸命に走った。ある人は現場の小屋に転がってうめき声を上げていた。夜になると空襲はさらに激しくなった。焼夷弾はまるで秋に吹く北西の風が柳の枝を揺らしているかのように落ちてきて、落ちた場所がどこであろうが、たちまち炎が上がっていた。私たちの建物の上にも焼夷弾が落ちてきて、建物全体が火に包まれた。眠っていた人々は慌てて飛び起き、大混乱の中を泣き叫びながら外へ飛び出していった。私も布団をかぶって窓から飛び出した。もう方向など分からなくなり、ともかく空き地に向けて走った。みんなは空き地にへたり込んだ。誰かが言った。「今度こそ俺たちが祖国へ帰る望みも消えたな。遅かれ早かれここで死ぬんだろう」。私も同じようなことを考えていた。爆弾で死ななければ焼かれて死ぬだろうし、疲れ果てて死ぬにしろ、飢えて死ぬにしろ、どっちみち活路はないのだ。あるのはただ死のみ。
・帰国時にも賃金は一銭も払われなかった。食糧は支給されたが、指導員がねこばばしてしまったので、缶詰一個しか残っていなかった。
・1958年の反革命分子粛清の時期に、私は日本で働いていた過去を持つことから「歴史反革命」という烙印を押されてしまい、強制労働三年の刑が言い渡された。その後の家族の窮状は筆舌に尽くしがたい。私は抗日を戦ったからこそ日本軍によって日本に強制連行されたのだ。決して自分から望んで日本に行ったわけではない。最底辺の生活が続く中で、妻は五十歳で病没した。息子は、私の身分のせいで、兵隊になろうにも合格基準で蹴られ、臨時雇いの仕事にさえ雇ってもらえなかった。ずっと悲痛の涙にくれていた息子は病気になり、三十歳で亡くなった。