祁双来[事業場名簿で不明]

築港 〔祁潤民(子)の証言、1995年12月18日付け河北大学に送られた手紙。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・父は北京鉄道局石家荘分局の南峪保線工区(河北省井?県)の労働者だった。父が日本に連行されたのはもとはと言えば、八路軍が鉄道の保線工具を奪い去ったことから始まっている。1943年7月のある日、父は南峪工区に出勤したとき、調べに来ていた警備隊に拉致された。正午には汽車に乗せられて石家荘まで運ばれていった。
 ・大阪では、八幡屋というところに住むようになった。汽船から荷下ろしをする仕事をさせられ、働かされた期間は二年ほどだった。1945年6月、飛行機が八幡屋を爆撃して、宿舎が焼き払われた。その年の8月、日本が降伏した。
 ・帰国後天津で、最終的には書付けを出してもらえたので、車に乗るのも無料だった。父は車に乗って北京に行き、その翌日、車を乗り換えて新楽まで行き、徒歩で浦沱河を越え、それから工事の車に乗せてもらって、ようやく石家荘に着いた。その後、車に乗って、やっとのことで家にたどり着いた。
 ・父が日本に拉致されて、家には母と私が取り残され、私はあのときまだ数ヶ月の赤ん坊だった。母は病気になり、生活は苦しく、経済的に大きな損失をこうむった。