甘白平 [事業場名簿で甘岬泉]
藤永田087 〔本人証言、2007年7月に甘白平自らが記した冊子「第二次世界大戦時の日本への強制連行の記録」より抜粋〕
・1943年の晩春、私は民権県で商売をしていた。ある日、傀儡軍警察が突然"良民証"の検査を始めた。私はこの証明書を携帯していなかったために拘束されてしまった。商売のために一人で民権県に来ていたので、私のために事情を説明し釈放を求めてくれる身内が近くにいなかったのだ。拘束されたあの瞬間から、自由を奪われ、開封の家族と手紙で連絡をとる権利さえなくなった。
・拘束された後、わずかな空間があるだけの塀で囲われた場所に閉じこめられた。周囲には警備が立ち、誰の出入りも許されなかった。そこに送り込まれてきた人数が七、八十人に達すると、出発して別の場所に移された。黒い服を着せられた我々一団は、背丈もいろいろで、年齢も老人から若者まで様々だった。日本軍警察に"護送"されながら村の小道を行進する隊列の風景は、人々に相当な恐怖を与えていた。隊列の者がもし脱走を企てたとしても、人目を引く黒い服ではすぐに見つかるだろうし、護送の警官が四方八方から見張っていたので、逃亡は不可能だった。
・民権駅で貨車に乗せられ、徐州駅で突然下ろされた。駅のホームでは日本軍警察が慌てた様子で忙しく動き回り、整列すると数本の長い縄を取り出して、我々を三つの隊に分け、一メートル間隔で一人一人の左腕を縛って数珠つなぎにしていった。
・翌日にまた乗せられた貨車は、速い速度で北へ向かって走った。午後三時頃、突然歩兵銃の射撃音がして、二人の日本兵が銃を持って車両の中を行ったり来たり、何かを調べているようだった。後で分かったことは、走っている貨車から飛び降りた人がいたということだった。
・貨車は小さな駅で停車した。下ろされて行進していくと荒れ野のような砂浜に出た。塘沽だと分かった。前方に、一平方キロメートルはあろうかという大きな四角い敷地が見えてきた。大きな門の両脇には武装した日本兵の見張りが立ち、周囲に高くびっしりと鉄条網が張り巡らされていた。門を入ってまた十数分行進すると、何重にも鉄条網で囲っているこの建物は、わずかにある木造以外は、ほとんどが筵で作られた粗末な小屋であることに気がついた。その粗末な小屋は整然と二十列ほど並んでいた。小屋の幅は八、九メートル、長さは三、四十メートルほどあり、列と列の間は十メートルほどの間隔があった。中に入れられると、小屋の真ん中には二メートルほどの通路があり、通路の両側には高さ一メートル、幅三メートルほどの、土で作ったオンドルがあった。オンドルは入り口から奥までずっとつながっており、上には葦で編んだ筵が敷かれていただけで、一枚の布団すらなかった。ここが日本侵略軍が建てた、かの有名な「塘沽強制収容所」だと分かった。
・私たちは疲れ果てていたので、オンドルに倒れ込んで、服を着たまま寝込んだ。見回りに来た日本兵がその様子を見たとたんに、鞭を振り回し始めた。ここでは、夜寝るときには服を脱ぎ、素っ裸でなければならないということを知った。さもなければ、逃亡を企てたとして処罰されるのだ。この収容所は人権が一切ないだけでなく、人の尊厳さえ徹底して踏みにじる場所だった。
・ある日、実際に逃亡しようとした人が捕らえられた。日本兵は私たちを敷地内の空き地に集め、円形に並べさせて、真ん中に直径十数メートルの空間を作った。そこに両手を縛られた真っ赤な体の人を引っ張ってきた。日本兵が高らかに「この男は夜中に脱走して捕まった。逃げたらどうなるか見せてやろう」と叫んだ。日本兵が皮の鞭を振り上げ、その裸体にすさまじい力で打ちつけてきた。鞭を打つ兵士の力はどんどん強くなり、疲れると次の兵士と交替して打ち続けた。当初は血の痕がはっきり分かった裸体は、打ち続けられる間に血と肉が混ざり合っていった。もだえながらも声を上げなかったその人は、徐々に、内臓が張り裂けそうなほどの憤怒の叫び声を発するようになった。あまりにも悲惨で見るに堪えなかった。みんな、日本兵の残酷さに心の底から怒ってはいても、その怒りを言葉で発することなどできなかった。
・ある深夜、銃声の後に騒がしい声がした。みんなはオンドルの上で裸の体を丸くして、誰も声を発しない。翌朝、炊事場に水を汲みに行くと、水汲み場から近い場所に裸の人が吊されていた。がっしりした体格で三十歳前後に見えた。腕を縛られて吊され、両足は地面から一メートルほどの高さに垂れ下がっていた。左足の膝下に、銃で打たれて開いた穴があり、穴の周りには血のりがべったりとついていた。苦しそうにうめく中で、時折「水をくれ、水をくれ」と声を絞り出していたが、誰も何もしてやれない。日本刀を身につけた日本兵が三メートルほど先から虎視眈々と狙っており、もし誰かが水をあげたなら、それは死を意味したからだ。
・ここでの食事はとても貧しく、朝はトウモロコシの粉で作ったマントウ一個、昼はそれが二つ、夜も二つ。それに漬け物とモヤシの炒め物が付くだけだった。
・この収容所では二つの目的があった。船を待つことと、大小便の医学的検査及び皮膚病検査をすることだ。検疫は一回に限らず、間隔を開けて何度も繰り返された。最後に、検査結果によって、合格者は出発名簿に入れられ、不合格者は別の名簿に入れられた。不合格者のその後の運命が幸に転じたとは考えがたい。
・私たちが乗せられた大きな船には、すでに石炭が船倉いっぱいに積まれていた。私たちは船体の後ろのほうの船倉に入れられた。甲板と石炭の間には一メートルほどの隙間しかなく、石炭の上には筵が敷いてあった。百人を超える私たちの寝床がこの石炭の上なのだ。この石炭倉庫は狭く、百人以上がひしめき合っていたので、座るかぎゅうぎゅう詰めで横になるしかできず、立ち上がって楽な姿勢をとることなど決してできなかった。一メートルの高さでは直立できないからだ。中は蒸し暑くてたまらなかった。
・船中での食事については、三ないし五人の炊事係を選んで、甲板の上に簡易的なかまどを作り、簡単な調理器具を使って、アワやトウモロコシ粉でマントウを作って蒸した。定時にお湯も供給した。トイレの問題は、木で二つの四角い木箱を作り、縄で船体の外の船べりにくくりつけた。使用するには非常に不便で危険が伴った。まず船を囲む五十センチほどの高さの壁に上り、その木箱の中に飛び降りる。波が壁を打ちつけ木箱も風で揺れる中で用を足すのは、さらに困難を極めた。数日も経たないある日の夜、大便をしに行った人が海に落ちた。
・気候が日増しに暑くなる中を、粗末な海上輸送手段に頼って百人を超える人間を運ぶことには、想定外の事故が伴うのは目に見えていたはずだ。私たちを無理やり送り込んだ関係部門は、当然それを分かっていたはずだが、必要な常備薬すら用意されていなかった。ある人は外傷の薬が急遽必要になったのに、ついにもらうことができず、傷口は放っておかれた。その人は塘沽で乗船したときに甲板上の鉄で足を負傷してしまったのだ。傷口は二、三センチほどもあり、血が止まらなくなったが、薬が手に入らなかったため、傷口を布で縛り血が止まるのを待った。数日経つと、傷口は炎症を起こして赤く腫れ、激しく痛むようになった。日本の船員たちはその人の苦しむ姿を見て見ぬふりをし、「お恵み」の薬を与えることすらしなかった。
・船から下ろされ、貨車に乗せられて大阪に着いた。暗闇の中で貨車から下ろされ、ある建物に連れて行かれた。そこは比較的明るい電気に照らされて、あまり広くないように見えた。周囲の塀はかなり高く、三、四メートルほどあった。塀の上には有刺鉄線が張り巡らされていた。入口の門の右脇には、警察の看守小屋があった。
・藤永田造船所でやらされた仕事は、きついものも軽いものもあった。鋼板を運ぶもの、木材を運ぶもの、造船台の付近で鉄製の部品を拾うものなどだった。二、三ヶ月が過ぎると、労働の内容に変化があり、リベットを打ち込む作業をやらされるようになった。これは非常に疲れる仕事で、ある一定の技術を必要とされた。日本人のベテラン作業員は、身振り手振りでどのようにやるかを説明した。この作業は船体の中で行うため。耳をつんざくほどの轟音だった。リベット打ちの仕事は、労働量が多く、一度失敗すると厳しく怒られるだけでなく、残業して取り戻さなければならなかった。食事が常に不足し、いつも腹を空かせていたので、疲労が蓄積していった。
・朝早く宿舎を出て夜遅くに戻る。それは雨が降っても決行され、絶対に中断されることはなかった。毎日の食事は、朝晩は粥にマントウ一個、野菜がちょっと付くだけ。昼は、青菜がちょっと載った弁当を炊事当番が車を引いて工場まで届けた。その木製の弁当箱は、私たちのための特製で、量は通常の弁当の二分の一か三分の一しかなかった。食事の問題について再三要望したところ、工場側はようやく、毎晩の夕食後、芋と小麦粉を蒸したものを各人に二つずつ配るようになった。それは二百五十グラムほどしかなく、形の上だけ解決したにすぎなかった。
・厳冬の到来によって大きな問題に直面することになった。防寒具の類が一枚もなかったのだ。厳冬に大海の造船台で労働すると、突き刺すような海風が全身を吹きさらし、鋼板を踏んでいる足は麻痺して感覚がなくなる。宿舎に戻っても暖房設備はまったくなく、屋内も屋外もさほど温度は変わらなかった。再三にわたる要求の結果、衣服が配られたが、薄いズボン一枚、紙のような半袖シャツ一枚、足の指が分かれているゴム底の布靴一足、これが越冬のための装備のすべてだった。これらの衣服だけでは寒風の攻撃に抵抗することは到底できず、特にゴム底の靴は靴底が凍るように冷たかった。さらに辛かったのは、足の指が分かれているのに慣れず、親指の間が摩擦で破れて、歩くだけで痛くて我慢できないほどだった。ズボンはガーゼのようで、まったく寒風を遮ることはできず、あまりの寒さに両足はぶるぶると震えた。仕方なく工夫をして「防寒着」を探して、急場をしのいだ。ある人がセメント袋を見つけたのだ。厚みがあるクラフト紙でできていて、足に巻き付けると風を防ぐことができた。そこで多くの人が行動を起こし、暇なときにクラフト紙を探し、これで寒さをしのいだ。
・常に寒さと飢えが差し迫る中、これに堪え忍ぶことができず、厳冬を越えることなく五、六人が相次いで亡くなった。この件について会社側がどのような善後策を講じたのか、具体的にどのように処理したのかは、私たちには分からない。
・連合国軍の空襲規模が大きくなり、飛行機群が私たちの上空をかすめながら市街地のほうに飛んでいくようになった。ある夜、おびただしい数の機体が一群また一群と姿を現し、投下した爆弾が雨のように降り注いだ。万が一のために一日がかりで掘らされた防空壕に、私たちは飛び込んだ。防空壕の周りあちこちに火が上がり、防空壕の出口も爆撃によって塞がれて、火種がジリジリと音を立て煙が上がった。このとき誰かが「早く火から出ろ、ぐずぐずしていては駄目だ。火の勢いが増せば煙を吸ってしまう。みんな火の海で死ぬことになるぞ」と叫んだ。その声と同時に、十数人が烈火を踏みつけて防空壕から飛び出し、各自が西へ東へと火から逃れた。監視していた警察官ですらどこに行ったか分からない状態だった。