郭振芳

築港032 〔本人証言1994年12月30日、石家荘で聞き取り〕
        〔本人証言1995年12月16日付け手紙(河北大学経由)〕

 ・当時26歳、河北省束鹿駅で鉄道の警備隊にいた。1944年7月3日(旧暦)、朝8時に私は何の理由もなく日本憲兵に捕まった。
 ・そこから辛集県の日本憲兵隊ら連行され、そこで拷問を受けた。拷問の時「おまえは八路軍と関係があるか」と聞かれて、「関係ない」という返事をしたら棒で殴られた。二度目にまた聞かれて、「いや、関係ない」と答えると、また殴られて気を失った。
 ・石家荘の南兵営に連れていかれた。警備は厳重で、塀の上には電気条網が張り巡らされ、塀の角などには望楼が設けられていた。門に入るなり私たちは靴、衣服を脱がされた後、別のボロ服、靴に着替えさせられた。その後、髪を丸坊主に刈られ、何かの注射をされまた。
 ・夜、寝る時はアンペラで作った小屋で寝る。ゆかもアンペラ敷でその中に日本兵がいて監視している。夜、便所に行く時も報告しなければならない。「ほうこく」と声を出して、日本兵が「行け」と言ってから動かなくてはならない。勝手に動いたらすぐに殴られた。
 ・大阪で仕事は朝5時に現場に行って、6時から始まり、翌日の朝6時まで仕事があった。重いものを運ぶ仕事だから、たいへん疲れ辛い仕事だった。
 ・一日2回だけの2つの小さなマントウしか食べ物はなく、腹いっぱい食べられない。ですからしょっちゅう人が死んだ。
 ・冬になっても、夏に来た時に着ていた薄い服しかなかった。寝るのも床に直接に寝る。布団も薄くて本当に寒くてしかたがなかった。靴も日本に履いてきた一足の靴しかなかったので冬になってかなり寒くなって本当につらくて、翌年春になって暖かくなり少しは救われた。
 ・大阪から帰国した後、家にどうにかたどりついたが、自分の妻が他の家に嫁いでいてもう家にはいなかった。私の家は貧乏で、私を救うために土地や家財を全部売り払ってしまったので、私は結局現在まで結婚することができなかった。一人で生きてきた。