郭明生 [事業場名簿で郭明王]

川口134 〔本人証言、1996年8月、北京市で聞き取り〕
         〔本人証言、1999年8月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年7月、陽武県の県城で拉致され、日本兵によって北関駅に連れて行かれた。そのときにはすでに百人余りの人たちがそこに監禁されていた。
 ・翌日、有蓋貨車に乗せられて開封まで運ばれ、別の貨車で今度は徐州まで運ばれた、徐州で汽車に乗り換えさせられたが、その汽車の中では、日本兵が厳重に見張っていた。汽車が止まると、たくさんの日本兵が銃を持ち、シェパード犬を連れて、両脇にずらっと並んで私たちを下ろした。そして新華院と呼ばれる大きな建物まで連行していった。
 ・新華院に連行された翌日の夜、私たちは眠っているところをたたき起こされた。検査をすると言うのだ。私は前日風呂に入れられたときに自分の服を隠していたので、持っていかれなかったわけだが、この検査のときにそれを奴らに見つかってしまい、取り上げられそうになった。私が奪われまいとして頑張ると、日本人と小警備隊員たちは棍棒を私の頭に振り下ろして、めちゃくちゃに殴りつけてきた。結局、服は奪われて、殴られた私の体は傷だらけになってしまった。
 ・新華院ではさんざんやられた。座っていて急に遠くを見ると、「おまえ、何を見ているか」。下を向くと、「何を考えているか」。こうやってもああやっても、とにかく怒られた。新華院は一切話ができるところではない。何を見てもすぐにとがめられる。隣の人を見ても怒られる。
 ・新華院での日々は本当に苦しいものだった。腹ぺこで、着の身着のまま、しょっちゅう殴られたり怒鳴られたりしていた。そのうえ、山の上まで上って穴を掘らされ、ガソリンの入ったドラム缶を埋める仕事をやらされた。三日に一度は、馬が引く荷車いっぱいに死体が積まれて新華院から運び出され、谷まで捨てられて行っていた。
 ・済南から汽車に乗せられて青島まで運ばれ、そこから船に乗せられた。船倉には鉱石がいっぱい積まれており、私たちはその鉱石の上に座らされた。船の中で食べさせられたものは、トウモロコシの粉とニンニクだけだった。全員が腹を空かせていた。何人かは病気になって、鉱石の上に横になったまま動けなくなっていた。
 ・大阪で船を下りたとき、「シナ、チャンコロ」と、子どもも娘も鼻をつまんで言った。宿舎まで歩いて行くとき、後ろからついてくる人や物陰で見る人もいた。仕事に行くときとか、「チャンコロ、チャンコロ」とよく言われた。
 ・大阪でのある日のこと、私は、てんびん棒の両端に石を積んだ籠を下げて、船から陸に渡された板の上を進んでいたとき、足を滑らせて石もろとも海に転落してしまった。このとき、年かさの日本人監督が竹竿で私を救い上げてくれたのだが、岸まで這い上がると、また続けて仕事をさせられた。
 ・ある日、班を率いている日本人が山東省の人に、別の場所に行って仕事をするように命じた。その人が行きたくないと言うと、日本人は彼にビンタを食らわせた。それを見た私が、殴らないでくれと叫ぶと、その日本人は振り向いて、今度は私に何発か浴びせた。私のほうも、息もつかせぬ勢いで彼に殴りかかった。そのあと、その日本人は数人の警官を呼んできた。警官たちは私を連行していった。私は警官たちから死ぬほど殴られた。そのとき空襲警報が鳴って警官たちが部屋から走り出ていなかったら、きっと私はその場で殴り殺されていただろう。
 ・ある日の昼頃、ちょうど飯が配られていたとき警報が鳴った。そこには防空壕はなかった。方々に逃げて、水たまりに飛び込んだ。上の方を見ていて爆弾が落ちるとみると、鼻をつまんで下を向く。終わったら仕事をやらせる。
 ・私たちは、牛馬のような扱いを受けて一年余りも日本で働かされていながら、一銭の労賃も受け取ってはいない。