何虧芝 [事業場名簿で何魁之]

築港249 〔王桂雲(娘)1994年9月3日付け手紙(河北大学経由)〕
   〔同僚の鮑瑞西1994年8月12日、保定で聞き取り〕
  〔鮑瑞西2003年3月22日午後、大阪で聞き取り〕

 ・我が家は河北省藁城県張家庄郷鮑家庄村で代々農業をしていた。父親、何虧芝(またの名は何虧子)は22才の時に日本軍に捕まり、日本に労工として連行され、そして日本で惨死した。
 ・母から聞くには1944年6月15日、父は北里で仕事をしていたとき突然日本兵に包囲された。他の青年たちと共に張家庄拠関(日本軍の拠点)に連れ込まれ、その日から尋問が始まった。
 ・1944年6月20日には、正定県の中の小北門に連行された。そこの木製の牢屋にほりこまれた。牢の中には既に十何人かの人が押し込まれ、狭くて立つことが出来ずにみんな座っていなくてはならなかった。いっしょの牢に入れられていた何虧子は先に拷問された。日乾しレンガ2個の上にひざまずかせ足先は床の上につかせないで長椅子を頭の上に支えて持たせその上に同じくおもい日乾しレンガを乗せ腕は延ばしたままで支え持たせる拷問を行なった。また、タバコの火を体中に押しつけられ、体にひどい傷が残った。
 ・6月1日、11時頃の空襲で(最初の)宿舎が焼けた。何虧子は陸での仕事をしていて仕事先で焼夷弾を受けて火傷をした。何虧子は右手と胸の真ん中が焼けていた。火傷がだいぶ良くなりかさぶたになってきた。一旦仕事に出ていた。やがて水疱がつぶれ、そこから感染して全身が腫れた。7月になって身体がむくみ始め、だんだん酷くなった。8月になり私が仕事に行っている間に亡くなった。火葬場もないので鉄板(ブリキ?)に載せもう1枚をかぶせて置いていた。日本の敗戦後8月21日に自分が遺体を焼き、遺骨を紙に包んで枕元に置いていた。ある日、武内が遺骨の箱を(人数分)持ってきた。死亡した者の遺骨だという。(15cm角ぐらいで)名前が書かれている。何虧子のは私が自分で焼き、自分で保管していたので偽物と分かる。箱を空けると骨が入っていたので、それを捨て自分が保管していた遺骨を入れ換えた。
 ・もともと我が家は農業と油搾りで生計を立てていた。父が連行されたのち、唯一の労働力を失いもはや田畑を耕す者も油作りの仕事のする者もいなくなり、一家はたちどころに路頭に迷うことになった。父を取り戻すために、やむなくなけなしの2ムー(畝、中国の1畝=15分の1ha)の土地を手放し、続いて油作りの設備を手放しそのお金で人づてに父を釈放してもらうように手立てを尽くしたが、その甲斐なく父を取り戻すことはできなかった。母は生きる気力さえ失ってしまい、祖父は気落ちがひどく間もなく死んでしまい、2才になった兄も病気を治すお金がなくしばらくしてこの世を去った。家には病気がちな祖母と14才になった伯母、それに10才の伯父と1歳の私だけが残された。