何幹臣

川口102 〔高合香(孫)の証言、2004年10月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・私の母はまだやっと九歳になったばかりだった。夜になっても祖父が戻って来なかったので祖母が聞いて回ると、日本人に連れ去られたと村人が教えてくれた。祖母のショックはあまりにも大きく、そのまま病に倒れて、回復することなく死んでしまった。一人取り残された母は、寄る辺もまったくなく、あちらこちらをさまよいながら生きていくしかなかった。
 ・生きて帰ってきた祖父が母に語ったところでは、大阪で働かされていた期間、食べ物もろくに与えられず、着るものもなく、来る日も来る日も日本の監督に鞭で打たれながら、石炭を担いで船から下ろしたり、船荷を運んだり、一日十数時間も働かされていたので、体が痛めつけられ、障害が残ったのだそうだ。祖父は、1994年10月24日に九十二歳で病没した。
 ・我が家も甚大な被害を受け、どん底生活が続いた。祖父を看病する人が誰もいないことが心配で、後に母は、嫁いだ先に祖父を連れてきて面倒を見た。母は幼いころから様々な苦しい目に遭ってきたので、もう今は身体が思うように動かず、自分で自分のことが何もできなくなっている。母がこんなことになった責任は、いったい誰にあるのだ。