傅寿亭

築港123 〔本人証言1994年7月18日付け回想録(河北大学経由)〕
〔本人証言1994年8月12日、保定で聞き取り〕

 ・1923年5月1日生まれ。1938年八路軍に参加、同年中国共産党に入党。文具の商売をしているという名目で、敵情の探索を行いながら党の為に抗日活動を行うと共に、自身のカモフラ-ジュに努めた。1944年農暦6月25日(新暦の8月13日)家から30華里離れた保定市で敵の活動状況を探ろうと南関に着いて間もなく、二人の日本憲兵が銃を私につきつけて私を一四一七宮島憲兵隊に連行していった。木作りの部屋に入れられた。部屋に入れられていた人々には商人や、農民、それに鉄道職員などがいた。棒で殴り付けるなど3回の訊問を受けたが、文具の商売人であると言い通した。
 ・石門捕虜収容所へ送られた。一日わずかに2食で、1食につき小さなお碗1杯の高梁飯だけ。おかずもなければ汁もなかつた。生水を少し飲めただけだ。住んでいたのは大きなアンペラ小屋で、夜寝るときは蓆(むしろ)をしいたり、かけたりした。布団など無い。寝るときは逃亡を恐れて私たちは丸裸にされた。そこではいつも餓えと寒さにうち震えていた。またいつも怒鳴られたり殴られたりしていた。病気になっても治療は受けられず、まったく非人間的な日々を過っていたので毎日死者が出ていた。私自身が目にした事ですが、毎日朝食の時になると馬車で死体を運びだしていった。多い時には20数人、少ない時でも7~8人運びだされていった。
 ・大阪港で下船後消毒を経たのち大阪市八幡屋41番地にある大きな建物に住まわされた。建物には板で作られた高い囲い壁があった。仕事は主に埠頭で貨物船での荷役をやらされた。貨物は鉱石、白糖、米、大豆、高梁などがあった。労働は大変厳しく、昼・夜の二交替で、昼の班は朝6、7時から夕方まで陽が沈んでやっと仕事が終る。時にはぶっ通しで夜まで続き、空が明けるまで働かされる事もある(こんな時夜にお米のご飯が上乗せされる)。お腹は空くし、寒い、ねむたくなる。監督は気に障るとすぐに怒鳴ったり棍棒で殴ったりした。まるで私たちを牛馬のごとく見ていた。
 ・毎日2食で、いつも黒い饅頭(マントウ)が一つに漬物一切れそれに水が1杯であった。仕事に出られない者は、この宿舎からも出さない。毎日毎日が餓えていた。食物の荷役の時など盗み食いが見つかると惨々な目にあった。仕事が終ると身体検査を受けもし食物でも見つかろうものなら惨々に殴られた。
 ・大阪の埠頭で10ヵ月間働かされたが、一度として服一着、靴1双も支給された事がなく、一銭たりとも支払われたこともない。出国前に石門労工訓練所で支給された、再生毛布を寒いときは身体に巻き付けて綿入れ代わりに着て、また夜には布団代わりにかけていた。働くときにも靴がなく、ゴム板を拾ってきたり麻袋の切れ端を足にあてて靴代わりにしていた。このような身なりをした私たち労工が隊列を組んで道を歩いていると、日本の小学生はそれを見て大変恐れすぐに逃げだした。
 ・私たちが住んでいたのは板張の建物で四方からすきま風が吹き込み、冬の雪の日などは堪え難いものだった。そこの湿度は大変高く、私たち中国の北方の出身者は乾燥地帯で育った為にあそこの気候にそぐわず、その結果全身に疥癬が生じてしまった。痒くてたまらず、ある者は更にひどく発熱化膿し膿と血にまみれていた。
 ・1945年4月6日早朝、特高の崗本利夫と山田政治が憲兵を引き連れ突然やってきて、私たち7~8人に手錠をはめた上で警衛室に連行した。その後私たちはそれぞれ連行されて行き、警察署に入れられた。私は吹田警察署に連行され、数日後汽車に乗せられて豊中警察署看守所に連行されていった。崗本と山田は私を訊問する時、私を共産党で八路軍だといった。私は"共産党でも、八路軍でもない"と答えた。彼らは様々な刑具で私を拷問にかけた。警察が私に課した数々の拷問によって、私は何度か死境をさまよった事があり満身創痕になり、今に至るもいやされず一生涯忘れ得ないものだ。敵の拷問は3カ月余り続き、私は最後まで共産党員であり八路軍である事を認めなかった。拷問に耐え生き続けたのである。最後になって私は気がふれたふりをしはじめ日本が降伏する迄彼らの私に対する訊問、拷問がやっと終った。8月16日の朝食後、もとは私たちの労働を監視していた木村常一が車で私が監禁されている豊中警察署にやってきた。そして、私を迎えにきた事を告げた。吹田警察署と豊中警察署に私は合計4カ月と10日間監禁されていた事になる。
 ・仲間たちのもとに戻って近況を尋ねあった。私たち数人が連れ去られた後、彼らはかなりの苦労をしたようである。特に食糧については、私たち小隊長が順繰りで当番していた時に比べかなり落ちた。粗悪とはいえ小麦粉を食べることが出来なくなり、始めはお米に大豆が交じったご飯になり、後にはお米に豆餅が混じったものに変わった。最後にはお米や大豆さえなくなり豆餅だけになった。豆餅とは、大豆や黒豆から油を絞った後に残った豆粕で作られたものであり何の栄養もない(家畜の肥料に用いるもの)ばかりか、食べた後ひどい下痢になる。人々の体力は一層衰えていき、病人が日増しに増えていった。
 ・私の家族も、私が捕まったあと働き手がなく子供も小さく、非常に苦しい生活だった。