鮑瑞西 [事業場名簿で鮑瑞錫]

築港053 〔本人証言1994年8月12日、保定で聞き取り〕              
        〔本人証言2003月3月22日、午前天保山公園横の安治川沿い宿舎跡近くで聞き取り〕

 ・44年旧暦の6月15日、日本軍により村が包囲され、私は捕まった。2日後私は拷問を受けた。私の口に棒をつっこみ、口をこじ開けて水を流し込んだ。余りに苦しくて、4、5回死にそうな状態になった。
 ・6月21日朝6時頃、正定県から汽車で石門(石家荘の捕虜収容所)に連行された。石門に着いたら、髪の毛を乱暴に切られ着ている服も全部脱がされた。普通班に編入された。住む所はアンペラ小屋で死人もいっしょに置かれ、生きているのか死んでいるのかわからない状態だった。毎日ほとんど30人くらいの死体が運びだされた。少ない時は16人くらいの人が亡くなった。普通班は日本に連行される予定の労工達とは班が違うので住んでいる所も違い、ここに住まわされている者はたぶん日本に連行される予定はないと安心していた。しかし、普通班に入れられて20日間位経つと予備班に入れられた。ここに入れられた後は15日間過ごした後、必ず日本に連行された。
 ・大阪で太陽が昇る頃仕事に行き、帰るのは沈む頃だった。休みは一日もない。日本人監督からは労働現場で「態度が悪い、よそ見をしていた」などと言ってびんたもあったし、足でも蹴られた。
 ・帰国後もずっと日本兵に殴られる夢をよく見た。年を取ってからはましになった。
 ・塩を運んでいるとき足を機械に挟み怪我をした(足に残る傷跡を示しながら)。履く靴がなく麻布を足に巻いて靴代わりにしていた。多くの者が疥癬に罹った。薬はなかった。2、3カ月してかさぶたになり治った。(今も足や背中に皮膚の引きつった跡が多数残っている)
 ・2カ月間、病院で12人の世話するために衛生班になった。12人は病名は分からないが動けなくなった。下痢が多かった。12人の内半分ぐらい死亡した後に病院から帰らされた。