范守仁 [事業場名簿で范併仁]

安治川174 〔范学貴(子)の証言、原陽県で聞き取り、2005年4月整理(張忠杰)〕

 ・私はここで、日本が中国を侵略していた時期に父が日本に強制連行され、強制労働させられたことに関して証言したい。
 ・私の父范守仁は1944年6月、陽武県北関老楊路で日本軍に襲われ、縄で縛られて連れ去られた。そして陽武県の北関駅で有蓋貨車に押し込まれ、山東省済南の新華院に送られた。
 ・当時新華院には、拉致されて連れてこられた中国人が数千人ほど収容されていた。日本人は、拉致してきた400人を4つの隊に分けて、強制的に訓練を行った。それは日本に連行して重労働させるための準備だった。1ヶ月余り訓練を受けた後、汽車に乗せられ、青島の海岸まで運ばれた。汽車の中では各車両に銃を構えた日本兵が見張りに立っていた。
 ・青島に着いた2日後、日本に向かう汽船に乗せられ、1週間後、汽船は日本の大阪港に接岸した。船から降ろされて、第1・2隊が一つの場所へ、第3・4隊がまた一つの場所へ連れて行かれた。
 ・大阪港では、強制的に港湾の荷役の仕事をさせられた。20人ほどが1つの班に組まれて、主には大きい船から小さい船に石炭や塩などを下ろす仕事をさせられた。毎日10時間以上の労働だった。厳重に監視されていて、殴られたり怒鳴られたりすることはしょっちゅうで、仕事が少しのろいとすぐに殴られていた。中国人に同じ中国人を殴るよう強要したこともあったそうだ。毎日500グラムに満たない食糧しか与えられないのに、仕事のほうは重労働だった。1年余りの間に、病死した人や餓死した人、過労で死んだ人の数は数十人にも上がった。
 ・父たちが住まわされていた建物は木造で、内部は暗く湿っていた。労工たちは全員、その湿った板の上で眠らされていた。病気になった人でさえ、引きずられるようにして仕事に行かされていた。
 ・ある日仕事をしていたときに、空から飛行機が焼夷弾を落としてきたことがあった。父たちは、100人ぐらいしか入れない防空壕に駆け込んだ。入り切れない人たちは水中に身を隠した。もはや身の安全を保障するものなど一つもない状況だった。
 ・私の父は最も劣悪な環境の中で強制的に働かされていた。それは父の心と体を痛めつけたものだった。