范臘月 [事業場名簿で范振華]

築港146 〔本人証言1994年8月12日、保定で聞き取り〕
     〔本人証言1998年4月12日、大阪で聞き取り〕

 ・河北省の定州市の私の村には共産党のゲリラ兵たちがよくやって来ていたので、日本軍もしょっちゅう村に来ていた。ある日私の村が包囲されて男という男は全部連れていかれた。私に対して日本軍は「おまえは八路軍だろう」と言い、「そうではない」と言うといろいろな残酷な拷問をされた。一番ひどかったのは、鼻から水を入れられる拷問だ。
 ・私が連れ去られた時、うちにあった物と言えば一匹のロバぐらいなものだった。そのロバさえ、日本軍は奪って食べてしまった。
 ・私は石門俘虜収容所に回された。そこでの食事は虫がついてるコウリャンだった。それでも食べなければならなかった。
 ・その収容所で一番にやらされた仕事は大きな坑を掘ることだった。その掘った大きな坑に毎日毎日死んだ人が捨てられていく。時にはまだ生きている人までもがもうだめだろうということでそこに捨てられていった。
 ・塘沽港から船に乗せられた。その船は中国から日本へ石炭を運んでいく船で、全員が石炭の上に座らされたままだった。食事は中国の小さな餅子(ピンズ)という食べ物、それも何で作ってあるのかわからないような非常に汚い餅子が1日に2個配られただけだった。船の中で飲まされた水というのは、言葉は悪いが、まるで馬の小便のような色の付いたような水だった。
 ・仕事というのは荷役、主には中国から運んできた鉄の塊や石炭を船から降ろす仕事だった。鉄の塊などを麻の袋に入れてそれを肩にしょって運ぶのだが非常に重たい。食べ物も充分ではないので身体が弱っているのに、そんな重たい物を担がなくてはならないわけだから身体がどうにも利かなくなってしまう。それなのに日本人の監督が後ろに付いていて、ちょっとでも怠けるようだったらすぐに棒が飛んできた。
 ・艀に乗って海の上の船まで働きに行く。朝出て行って、明くる日の朝まで働く。場合によっては24時間以上働くこともあった。夜中には、たまに小さなおにぎりを2個くれることもあったが、そういう重労働をしながらそれっぽっちの食べ物ではどうにもならなくて身体は日に日に衰えていった。
 ・ある日、鉄の塊を降ろす作業の時シャベルの柄が折れてしまった。当時私たちを監督していた武内という男、しょっちゅう私たちを殴っていた一番悪い奴だが、この男が「おまえ、わざと壊したんだろう。おまえは共産党だから日本に来でもまだ破壊活動をやってるんだろう」と言う。一緒に仕事をしていた楊さんも言い掛かりを付けられて、副大隊長だった王さん、この人は中国で共産党だったので捕虜になった人だが、この人が「わざとやったわけじゃない」と弁解してくれたが、武内は「おまえもこいつらをかばうのか」と言って3人一緒に警察に連れて行った。警察ではまたさんざん拷問された。針金で小指を縛って吊り上げる。それで指がこんな形になってしまった。(現在も小指は爪がほとんどなく両指先は曲がったままである。)私は中国で捕まった時も拷問され、また大阪でも拷問された。私の受けた傷をどうかみなさんご覧になってください。(煙草を押しつけられた火傷のあとが何箇所も白く残っている。)全身傷だらけですよ。
 ・私たちは着る物もないのでセメント袋を身体に当てて藁縄でくくったりという状態だったし、風呂にもはいれないのでしょっちゅう「くさい、くさい」と言われていた。日本が降伏して、アメリカ軍が来てからようやく少し生活が良くなった。
 ・私たちが大阪に着いた時、当時の会社の責任者が出てきて私たちに話をした。「おまえたちがここで働くのは1年の期限で、1日に付き10元払う」と言ったが、結局最後まで1銭も貰ったことはない。その金はどこに行ったのか。それとも最初から騙すためにそう言ったのか。