白同愛

築港231 〔白秋水(甥)1998年1月2日、定州市で聞き取り〕
      〔同僚の笵朧月1998年4月12日、大阪で聞き取り〕
     〔白秋水(甥)2001年4月10日、大阪で聞き取り〕

 ・私の村から一緒に連行されてきた白同愛は身体が弱っているので大きな麻の袋がなかなか担ぎ上げられなかった。すると後ろから監督に鉄の棒で右の肩のところからバーンと殴り付けられその場に倒れ込んでしまった。宿舎に連れて帰ってきた後、彼は寝込んでしまって医者も見てくれない。そのまま食べ物も食べられない状態のまま5日間ぐらい放っておかれ、とうとう死んでしまった。(事業場報告書死亡診断書綴には、昭和20年3月6日病死・慢性腎臓炎と記入されている)
 ・家族が白同愛の日本での死を知ったのは1951年。生み親とおじさんから聞いた話では次の通りだ。白同愛は1944年6月15日捕まった。当時抗日青年会主任をしていた。石家荘を経て旧暦8月15日塘沽に、8月28日日本へ。日本ではきつい労働にいじめられ、1945年旧暦8月ごろ死んだ。
 ・白同愛は5人兄弟の長男、次男は早くに死去、三男は自分の実の父であり白日英で同愛が連行きれたとき10歳くらい。家の主要な働き手は白同愛であった。白同愛が日本へ連行され、働き手を失った残された一家は野草や木の葉をとって食べざるをえない苦しい生活となった。白日英は、15歳くらいから家の中心となって働いていた。自分が1歳の頃に親族会議で白同愛の養子ということになった。それは、同愛の妻に家にいてもらいたいという事情によっている。祖母と同愛の妻に働いてもらわないと一家の生活がなりたたないという経済的事情とともに、その人が自分をかわいがり精神的な支えになっているという事情があったからである。当時、いっしょに暮らしていた家族は祖母、同愛の妻、白日英夫婦、日英の弟2人だった。
 ・国へ帰る前に突然大きな嵐がやってきた。亡くなった白同愛さんたちの遺骨は骨壷に入れてあったが、その嵐の大水で骨壺は全部流されてしまった。死んだうえに遺骨さえなくなってしまったのだ。私は村に帰った時に白同愛さんの家族から彼の消息を尋ねられて、どうしても死んだとは言えなかった。最後の最後にそれを告げた時も、遺骨さえ海に流されてしまったということを聞いて白同愛さんのお母さんもお嫁さんも、大変な衝撃を受けた。
 1973年入党した。一般には入党時には手紙で地元に問い合わせをする程度なのに、自分の場合は2度にわたって人が派遣されて調べられた。そのため、入党が1年遅れた。1975年排長になるときも3度にわたって人が派遣され調査された。幹部への昇級も二年遅れた。白同愛が日本に行ったという事実が影響した。范臘月が白同愛が強制連行されたことを証明してくれたおかげで問題がやっとはっきりした。