裴昌友

川口080 〔裴守良(甥)の証言、2003年10月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年の7月か8月頃、叔父は陽武の県城で日本軍に拉致され、県城の北関駅から有蓋貨車に押し込まれて、山東省済南の新華院というところに運ばれたそうだ。
 ・帰国できた人たちから聞かされたところでは、新華院では、毎日山に登って働かされ、食べ物もわずかで着るものもなく、いつも日本人から殴られたり怒鳴られたりしていたそうだ。
 ・大阪では、早朝から暗くなるまで一日十数時間、穀物などの積み卸しの仕事をさせられた。食べ物は質の悪い小麦粉で作ったマントウだけで、腹一杯になることはなかった。着ている服はぼろぼろに破れてしまった。それでも日本人監督から、怒鳴りつけられたり殴られたりしながら働かされていた。このような凄まじい虐待を受けながら、一年余りの苦役が続いたのだ。
 ・叔父は、日本で働かされている間に病気になったが、治療してもらえなかった。おまけに食べ物も満足に与えられず、体がどうしようもなくひどい状態のまま帰国させられたので、故郷に戻る途中で亡くなってしまった。1945年12月だった。叔父と一緒に郷里に向かっていた同じ村の張守義や王保義らが教えてくれた。