牛漢 [事業場名簿で牛瑞峰]

築港063 〔本人証言1994年12月30日、石家荘で聞き取り〕

 ・1944年6月、私は当時20才で、豆于という所で警務分所の警務士をし、八路軍の地下工作をしていた。その時に現?台市の順徳警務段(鉄道沿線警備隊)に駅で捕まった。丸太の棒で殴るや、椅子に上向けにくくりつけて汚いタオルで鼻を塞ぎ水を無理やりに飲ませ腹を蹴るなどの拷問を気を失うまでされた。その後、元氏県の日本憲兵隊に送られ、さらに石家荘に送られた。
 ・石家荘の南兵営(石門捕虜収容所)の入れられると、すぐ着ているものを脱がされ持っているものすべて取り上げられ、消毒液をかけられた。
 ・便所に行くにも、寝たままで報告して「よし」ということになれば初めて便所に行くことができた。報告をしないでいきなり立って便所に行こうとすると殴られる。
 ・南兵営でやられさていた作業は煉瓦を焼くという仕事でものすごく体力がいるにもかかわらず、食事は毎日二回だけ。わずかばかりのコウリャン飯で身体が持たないので、地べたの生えている名も知らぬ草花をむしって飢えをしのばなくてはならなかった。仲間はひどい下痢になったりした。
 ・塘沽から「清津丸」という船に乗せられて出港したが大時化に巻き込まれた。船長が非常に迷信深い人で、海の神にいけにえを差し出せば嵐は静まると考え、劉振起という隊長を通じて「誰かひとり人を出せ」と言ってきた。そこで、劉振起は彼と対立していた田玉海を捕まえて両手両足を縛ってカマスの中に押し込んで海の中に放り込んだ。
 ・大阪で着るものは石家荘の収容所に出る時に支給されたままのひとえの衣服しかないので、真冬になってもまったく同じ格好で働かなくてはならない。日本へ着いて日本が投降するまで、一回の衣服の支給もなかった。お金も一度ももらったことはない。
 ・1945年4月1日だったと思うが、警察に私を含む12人ぐらいが「暴動を起こす」という理由で逮捕された。警察でもいろいろな拷問をされた。指の間に棒を挟んできつく縛り付ける、竹刀が壊れるほど殴られるなど。
 ・8月15日に日本が投降した後、ばらばらに収容されていた12人が一緒の拘置所に移された。そして、8月18日頃、やっと監視員が我々を迎えに来た。