呉春来 [事業場名簿で呉春蘭]

安治川082 〔本人証言、2004年8月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年、私は同じ村の数人と一緒に県城の北関で小さな商いをしていた。この商いで一家を養っていた。7月のある日、私は数人の日本人がたくさんの人を拉致して北関駅に連れていくのを目にした。そのときはあまり気にも留めなかった。しかし、再びやって来た日本人たちによって私たち数人も同じく拉致された。私たちの前に捕まった人たちと一緒に駅の中に閉じこめられた。そのときにはすでに200人余りの人々が駅に押し込まれていた。翌日、銃を持った日本兵によって汽車に乗せられた。日本兵は車両ごとに見張りに立っていた。1日以上かけて山東省の済南、新華院まで連れて行かれた。新華院に着いてから食べさせられたものは、カビの生えた粟のスープで、たった1碗しかなかった。
 ・私たちが入れられた場所は、地面に稲わらがばらまいてあるだけの所でその上で寝かされた。夜になると見張りは特に厳しくなり、大小便をしたくなったときも報告しなければならなかった。もしも報告しなければ、警備の者が1メートルほどの長さの黒と赤に塗った棍棒で殴りかかってきた。新華院に入れられていた期間、毎日荷車で死体が外に運び出されるのを見た。私たちは時々働かされる以外は体操をさせられたぐらいで、その他の時間は何もすることがなかった。
 ・1ヵ月ほど経ったある日の朝、日本兵が笛を鳴らして私たちを集合させ整列させた。すると、日本兵は若くて丈夫で力のありそうな者たち400人余りを選び出し、1人1人の血液と大小便を検査した後、緑色の服と綿毛布を配った。それから私たちを汽車に乗せた。そのときはどこに連れて行くのかは知らせてくれなかった。汽車はまっすぐ青島の埠頭付近まで走り、汽車から降りると大きな広場のようなところに集められた。翌日、私たちは船に乗せられた。乗せられてからようやく、日本に働きに行かされるのだということが分かった。時すでに遅し、もうどうしようもなかった。船に乗ってから船倉を見ると、そこには岩石がいっぱいに積み込まれていた。私たち400人余りは、全員その岩石の上に寝かされた。食べ物はトウモロコシの粉で作った生煮えのマントウが1回につき1個だけだった。海上は風が強く波が激しく、多くの人たちが船酔いのために倒れ込んでいた。7~8日後、船は接岸した。どういう地名だったのかは分からないが船から降りて、全員が風呂に入れられ消毒された。それから小さな船に乗せられて大阪安治川労工所に連れて行かれた。
 ・住まわされたのは木造の建物で、日本人が見張りに立っていた。数日も経たないうちに、仕事が始まった。主には埠頭の大きな船から石炭を下ろし、岸まで担いで運ぶ仕事だった。ときには、大豆や小麦やトウモロコシなどを下ろすこともあった。1日の労働は数十時間にも及び、毎回の食事は空腹を満たせる様な量ではないのに、仕事のほうは大変な重労働をさせられていた。それなのに少しでも仕事が遅いと殴られた。この1年余りの間に、数十人の難友たちが命を失った。彼らは異国の地で、病のために死に、疲れ果てた末に死んだ。寒さに耐え、飢餓と闘う日々が続いた。
 ・今に至るまで、私は1人の被害者として生きてきた。日本に強制連行され強制労働させられた1年余りの月日は、私の家族と私自身に重大な損失を与えた。
 ・強制連行で一銭の金銭も得ることなかった。強制連行の事実を認めて、我々の正義を回復するよう求める。