呉生才

安治川081 〔呉祖林(子)の証言、原陽県で聞き取り、2007年2月整理(張忠杰)〕

 ・1944年の秋、日本軍は原陽県に入ってきて、至る所で放火、人殺し、略奪を行ない、罪もない人々をさらっていった。日本軍は村を掃討し若者を連れ去っていった。父は身を隠すのが間に合わず、捕まった。
 ・日本に向かう船に乗せられ、船倉の鉱石の上で寝かされた。波が高く船が揺れ多くの人が船酔いになり倒れ込んだ。おまけに生煮えのトウモロコシのマントウを食べさせられるだけだった。数百人の大部分が病気になり、息も絶え絶えになっていた。しばらくして日本兵に蹴り上げられて目覚めると這うようにして船から下ろされた。数人が船上で死んだそうだ。
 ・大阪では、毎日埠頭で石炭を下ろす仕事をさせられた。大きな船から天秤棒で岸に担ぎ上げる。一日十数時間働かされた。いつも腹ぺこで、仕事が少しでも遅いと、日本の現場監督が棍棒を振り上げて殴りかかってきた。
 ・殴られた後も働かなくてはならない。病気になっても治療はしてもらえなかった。
 ・死ぬと、外に引っ張り出されて火葬された。恨みのこもった魂が、いったい幾つそこにとどまっているか分からないほどだ。