呉明海 [事業場名簿で呉文華]

安治川097 〔呉英才(子)の証言、原陽県で聞き取り、2005年5月整理(張忠杰)〕

 ・当時は家が貧しく、やむなく兵隊になることで家族を飢えから救うことにした。父は7月に県城で日本軍に捕まり、県城の北関駅に閉じこめられた。200人近くの人々とともに、日本軍によって有蓋貨車に乗せられ、山東省済南の新華院に連れて行かれた。新華院に1ヶ月余り監禁されていた。そして、食事も衣服もひどいものだったそうだ。その後、父たちは汽車に乗せられて青島まで運ばれた。乗車する前、一人一人に衣服が1着支給された。青島で下車した後、今度は船に乗せられて日本に運ばれて行った。
 ・船は数日間海上を進んだ後、ある港に着いた。船を降りると、風呂に入れられ、消毒され、それから汽車に乗せられて、安治川に連れて行かれた。父たちは安治川の埠頭で荷役の仕事をさせられることになった。
 ・父は第4隊の隊長だった。労働させられていた期間、朝は小さなマントウが1個配られ、昼は働いている場所で食事をし、午後の仕事が終わると、住まわされている建物に戻ってから食事をしていた。食事の量が少ない上にきつい重労働だったので、多くの人々が病気と飢えのために、日本で命を落とした。