魏永禄 [事業場名簿で魏学義]

築港199 〔本人証言1994年8月12日、保定で聞き取り〕

 ・1944年6月、河北省完県(現・順平県)で日本の憲兵隊に捕まった。捕まってその夜、私に拷問による訊問が加えられた。皮のベルトで殴り皮靴で痛めつけるなど30分以上拷問が続いた。八路軍に通じているという名目だった。背中にかなりの影響が残った。
 ・その後望都へ連れて行かれた。憲兵隊で20数日間留められ、そこでもやはり拷問があった。水を無理やり飲ませるための特別製の荊具があり、そこに両手両足を縛りつけ、首の所には半円形の首を固定させるものが付いていてそれを首のうえに押さえかけられると頭を動かすことができない。それが6月の太陽の照りつける中でやられ、鼻をつまんで無理やり水を流し込むやり方だった。いっぱいになると踏みつけてそれを出させるということを繰り返し、死線をさまようひどい拷問だった。
 ・石門捕虜収容所のまわりに電気鉄条網が引かれ、そこに軍用犬を放して見せつけ、もし逃げようとしたら感電死したり犬に噛み殺されたりするぞと脅しをかけていた。
 ・我々は石門の収容所のなかでひどい目に合い、寒さや飢えにさいなまれていたので毎日たくさんの人が死んでいった。
 ・大阪でやらされた荷役の仕事は大変疲れやすく、労働時間も非常に長いもので1日12時間にわたる労働だった。時には夜も引き続き休む間もなく働き続けた。眠いし疲れるし、しかも日本人の監督がののしったり殴ったりした。荷役の仕事ばかりでなく工場で働かされたこともある。
 ・1日に1個だったか2個だったか黒いマントウが与えられるだけで、その他には漬物がひとかけらとお湯が一杯もらえるだけだった。
 ・一着の衣服、一足の靴すら、一度も支給されることがなった。
 ・大阪で衛生状態が悪いので、全ての者が皮膚に疥癬がかかり大変かゆいしかくと血が出て、みんな血まみれになっていても何の治療もしてくれなかった。こんな様子で働きに行くときに町の中を通ると、通りがかった人が顔を背け鼻をつまんで「くさい、くさい」(日本語で)と言ったのを覚えている。
 ・当時、私は夜盲症になっていて夜になると何も見えなくなってしまう。連合国側の爆撃が激しくなっていた頃で逃げることができない。そんな時に難友達が私の手を引いてくれたり、背負ってくれたりして逃がしてくれたので命を永らえることができた。
 ・私が日本から帰って家に戻ると、兄や兄嫁は元気だったが、父親はすでに亡くなっていた。私が捕まって2~3ヵ月後に私が捕まったこと事を気に病んで、心配が高じてとうとう亡くなった。私が父親に対して孝行しないといけないのに、父親の方が先に亡くなってしまうという本当に親不孝なことをした申し訳ないという気持ちで一杯だ。