閻修成 [事業場名簿で関修成]

安治川034 〔閻興家・閻興華(子)の証言、原陽県で聞き取り、2005年5月20日整理(張忠杰)〕

 ・1944年8月のある日、父は何の理由もなく拉致されて、陽武県城の北関作業場に監禁された。その後100人余りの人たちと一緒に有蓋貨車に乗せられ、山東省の済南に運ばれて行った。貨車から降ろされると、日本兵が銃を構え大きなシェパード犬を連れて両側に立っている間を歩かされながら大きな建物の中に入れられた。そこが新華院だった。
 ・新華院の内部は監視がとりわけ厳重だった。周囲を囲む高さ5メートルもある塀の上には3重に鉄条網が張られ、敷地の四隅には監視塔があり、常に日本兵が見張りに立っていた。
 ・食べ物は質の悪い小麦粉で作ったビンズだけで、それを1日に2度与えられた。しかし、全く飢えを満たせるような量ではなかった。夜寝るときには特に監視が厳しくなり、話をしているだけですぐに殴られた。1ヶ月余り経った頃、400人ほどが集められ、一人一人に服1着と掛け布団1枚が配られ、無理やり汽車に乗せられ青島に送られた。
 ・青島に着いて汽車から降りると大きな建物の中に入れられた。その翌日、日本に向かう船に乗せられた。船の中で与えられた食べ物は、トウモロコシの粉で作った半生のマントウとニンニクだけだった。石炭が積み込まれた船倉内に座らされ、丸7日かかり下関に着いた。船から降ろされると風呂に入れられ消毒されてから、汽車に乗せられ大阪まで運ばれた。
 ・大阪では苦しい仕事をさせられた。主な仕事は、埠頭での石炭や鉄や穀物などの荷下ろしだった。食事は1日3度、朝はうすいスープが1杯、昼は埠頭で箱に入ったご飯、夜は粗末な小麦粉で作ったマントウが1個、それだけでは腹が満たされるはずなかった。衣服のほうは船に乗る前に配られた服が1枚しかなかった。寒さと飢えのせいで、骨と皮ばかりに痩せこけていた。それでも重労働をしなければならなかった。多くの人たちが病気になり、死亡者さえ出るようになった。
 ・以上が、父が生存中に語ったすべてである。私は息子として怒りを抑えることができない。父は日本で労工にされて踏みにじられ虐待を受けたにもかかわらず、一銭の賃金も支払ってもらってはいない。