田逢雲 [事業場名簿で田風雲]

安治川083 〔本人証言、原陽県で聞き取り、2000年5月整理(張忠杰)〕

 ・1944年7月、陽武県(今の原陽県)の県城で拉致された。拉致されてから有蓋貨車に押し込まれ、北関駅から山東省済南の新華院に連行された。
 ・新華院に1ヶ月余り閉じこめられていた間は、北山でガソリンを入れたドラム缶を埋める仕事をさせられたりしていた。いつも空きっ腹を抱え、着替えもなく殴られたこともあった。夜寝るときには警備隊員が見張っていた。少しでも動くと警備隊員が持っている黒と赤に塗った棍棒で殴りつけられるので、身動き一つできなかった。監視が非常に厳重だった。
 ・その後、日本人は200人余りを青島まで連れて行き、そこから日本に向かう船に乗せた。船には鉱石や石炭やその他の荷が積まれていた。私たち全員、船倉の鉱石の上に座らされた。船の中での食べ物はトウモロコシの粉とニンニクしか与えられなかった。15日ほどして、船は日本の大阪に着いた。
 ・船から降ろされて、安治川に連れて行かれた。私たちがやらされた主な仕事は、大きい汽船から小さい船に荷を下ろした。荷は石炭や穀物などで、一番多かったのは石炭だった。1日の労働時間は、10数時間のときもあれば8時間のときもあった。いつも腹ぺこで、ときには殴られることもあった。私は一度、日本人の話す言葉が分からなかったためにひどく殴られたことがあった。
 ・私たちが住まわされたのは木造の建物だった。大阪では黒い服とゴム靴が支給された。病気になると診察された。
 ・日本で働かされていた間に随分と体を痛めつけられたので、今でも様々な病気を抱えている。