段新立

川口056 〔本人証言、2000年8月、偃師市で聞き取り(張忠杰)〕
 〔本人証言、2001年5月、焦作市で聞き取り〕

 ・1944年の夏、十八歳のときに抗日遊撃隊に入っていたが、日本軍に包囲され捕虜になった。五十人余りの捕虜は、一人一人の腕を縄で縛られて数珠つなぎにされた。
 ・洛陽の西宮兵舎に連行され、私たちは二つの部屋に入れられた。五十数人の人間が大小便もその部屋の中でさせられ、外に出ることは許されなかった。部屋の外では日本兵が見張りに立っていた。西宮には二十日余り監禁されていた。そこではたくさんの人が死んだ。死ぬと荷車で兵舎の外にある井戸に投げ込まれた。それが三日に一度ぐらいあった。ほとんどの人が餓死だったが、病死した人もいた。一人当たり一日に生の粒状のトウモロコシが一つかみと、わずかな汚れた水が与えられるだけだった。苦しい日々だった。
 ・洛陽の収容所の中で、人が死んだのを三回ぐらい見たことがある。小さな馬車に七~八人乗せて、痩せて皮1枚しか残っていない人、中にはまだ生きている人もいて、まだ大丈夫だと叫びながら外に出された人もいた。ほとんど服も着ていない状態。収容所のすぐ横には、もともと農民が作った灌漑用の井戸があり、そこに遺体を放り込んでいた。
 ・船に乗せられると、船倉にはぎっしりと鉱石が積まれていた。私たち数百人は全員その鉱石の上に横たわった。船中で二人亡くなったが、日本兵はその遺体を海に投げ込んだ。
 ・大阪での仕事は、埠頭で船から穀物などを下ろし、それを汽車に積み込む作業だった。数日かけて船から鉄の塊を下ろしたこともあるが、鉄の一塊は十五キロ以上あった。それを一日に付き一人が三トン以上下ろさなければならなかった。疲れて少しでも手を休めると、日本の監督が木刀で殴りつけてきた。
 ・私が一番たくさん仕事をした場所は、穀物の荷下ろしをやらされた住友倉庫と、鉄の塊を運ばされた三菱重工倉庫だ。
 ・私もこっぴどく殴られたことがある。あるとき私は手押し車で荷物を運んでいた。坂になっているところで車輪が滑って柱に当たり、車がひっくり返って荷物が地面に落ちてしまった。日本の監督は私の目の前に飛んできて、木刀を振り上げて私を殴りつけ、足で蹴り上げた。そんなことが二回ほどあった。
 ・ある日、機器を下ろしているときにワイヤーが抜けて機器が落下し、四川省の人が一人下敷きになって即死した。その人は死後、引きずられて行き火葬にされた。
 ・大阪での朝食は、マントウ一個と質の悪い小麦粉のスープ一杯だった。昼食は現場でおにぎりが一個、夕食はやはりマントウ一個とスープ一杯。誰もがお腹をすかせていて、体力を越える重労働をさせられていたので、病気になって何人もの人が亡くなった。
 ・風呂は一度も入ったことはない。現場に水道の蛇口があるので、そこで洗った。