段梅 [事業場名簿で段美]

築港232 〔段枌(弟)の2005年1月6日付け手紙〕
          〔段玉爾・段玉昌(子)の2004年3月4日付け手紙〕

 ・段梅は村の医者だった。1943年11月、解放区が緊急に必要としている薬品を持って北京から河北の唐県に戻る汽車の中で日本軍の憲兵に捕まり日本に連れ去られた。それ以来ずっと音信がない。1946年、私たちは中国駐在日本大使館に手紙を出して調査を願ったが返答はなかった。
 ・段梅は私の3番目の兄だ。兄は耳が不自由だった。汽車の中で日本の憲兵に尋問されたときには、きっと極度の緊張と恐怖を感じたことだろう。兄は自分が「八路軍」という罪名を着せられて捕まってしまうと家族に危害が加わることを心配して、この「梅」の字を「美」に変えて書いたのだ。日本の憲兵は兄の家を突き止めた。それで、日本軍は「大掃討」のとき、合わせて47部屋あった我が家の家屋をすべて焼き払った。それだけでは済まず田畑は取り上げられた。段梅には、そのとき4人の子供がいた。大きい方から6歳、4歳、2歳で、一番下はまだやっと1歳になったばかりの赤ん坊だった。穀物、衣服、家屋のすべてが焼き払われてしまい、住むところもなく食べるものもなかった。