段永富

川口070 〔本人証言、2000年5月、偃師市で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年7月、村民の安全を守るために抗日遊撃隊に参加していた。日本軍との戦闘中に捕らえられ、縄で全員の片腕を数珠つなぎに縛られ、洛陽の西宮兵営まで連行された。
 ・西宮では、一日につき百~二百グラムほどの食糧しか与えられなかった。水もほんのわずかしか飲めなかった。餓死したり病死したりする人は数え切れないほどだった。
 ・貨車で山東省の済南まで運ばれ、強制収容所である新華院に入れられた。そこでは、夜は建物の中に閉じこめられ、ずっと警備隊員から見張られていた。もしも小声で話している声が警備員の耳に入ると、彼らは手にしている黒と赤に塗られた棍棒を振り上げて、こっぴどく殴りつけた。
 ・新華院での食事は一日二回で、毎食トウモロコシの粉で作った二個のマントウしか与えられなかった。みんなの飢えは深刻で、誰もが立ち上がる力が出ないほどの飢餓状態だった。
 ・大阪に行く船は大きな木造船で、船倉にはぎっしりと鉱石が積まれていた。私たち八百人はその鉱石の上で横になった。船の中での十数日間は、トウモロコシの粉とニンニクで飢えをしのぐしか方法はなかった。
 ・大阪での主な仕事は、埠頭で石炭や鉄や穀物などの積み荷を下ろす仕事だった。朝六時に起床して、質の悪い小麦粉で作ったマントウを一個食べた後、仕事に行かされていた。暗くなるまでずっと働かされた後に、ようやく連れ戻されていた。一日十数時間にも及ぶ労働だった。加えて常に腹ぺこの状態だから、みんな骨と皮ばかりにやせ細っていた。それでも、仕事がのろいと言っては殴られていた。