馬成界

安治川141 〔本人証言、山西省翼城県で聞き取り、2002年9月整理(張忠杰)〕

 ・1944年7月北関で日本人に強引に拉致された。
 ・新華院は警備が厳重で、周囲には電流の通じている鉄条網が張りめぐらされていた。強制労働は1ヶ月ほど続いた。3度の食事はいつもアワとコウリャン米だった。毎日山に登ってシャベルで働かされ殴られるときもあった。それから各人に1枚の綿毛布と1着の服が支給された。日本に向かう船では、トウモロコシの粉とニンニクが渡された。船底には鉱石がぎっしり積まれ鉱石の上に座らされ。6~7日で大阪の安治川に着いた。
 ・安治川では、毎日大きな船の上で仕事をした。石炭を袋に入れ、袋をクレーンで木造の船に下ろしていた。てんびん棒で石炭を担ぐことやてんびん棒の両端に大きな竹かごを掛け50キロ以上の石炭が積まれた。船から陸に渡してある大きな木の板の上を進むときには大変危険だった。船から工場までの距離は200メートルほどあった。1人当たり1日10トンほどを担がされていたので、大変きつくて苦しい仕事だった。
 ・毎日少なくとも13~14時間は働かされていたのに、毎日朝と夜、質の悪い小麦粉で作ったマントウが2個ずつしか配られなかった。2個のマントウを合わせても100グラムほどだ。昼は大きいほうの船の上で、おにぎりが2個ずつ配られたが、1日3食におかずは付かず、決して腹一杯になるような量ではなかった。それでも命がけで働かなくてはならなかった。
 ・初めのころは言葉が通じないので、仕切っている監督からいつも殴られたり怒鳴られたりしていた。あるとき監督は私に罵声を浴びせながらシャベルで殴りつけた。私の左膝にはそのとき殴られた傷痕が今でも残っている。
 ・安治川で働かされていた間、一度も服を支給されたことはない。日本式のゴムぞうりが1足配られただけだ。服がボロボロになったので、済南で配られた綿の毛布を服にし直して着ていた。