安汝貴

築港[別]12 〔安鳳(子)の証言、証言日不明。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・安汝貴は当時30歳、馬頭鎮(河北省磁県)で日本人のために連絡員をしていた。1944年8月、日本兵に連れ去られ、縄で縛り上げられて、馬頭の民心安定隊に送られた。その当時、安汝貴は名義の上では日本の連絡員だったが、実際には地下工作員の姜明亮の指導を受けていた。日本兵は様々な拷問をし尽くした。両足を伸ばして坐らせ、膝を縄で縛りつけて、かかとの下に煉瓦を差し込み、その煉瓦を増やしていく拷問や、煙でいぶしたり、火攻めをしたり、棍棒などでめった打ちにしたりして自白を強要した。何度も生きるか死ぬかという目に遭わされ、上半身に五ヵ所の傷痕が残り、下肢の左のすねは骨折していた。
 ・安汝貴は体が弱かったので、大阪では作業中に何度も気を失って地面に倒れ込んだが、それでも絶え間なく殴られたり怒鳴られたりした。
 ・日本の敗戦後、金も物も何も持たずに帰ってきた。ただ一つ、苦労を共にした仲間の一人の骨箱を持って帰っただけだ。その仲間は本県東城堂村の宋保学だ(宋保学は事業場報告書で44年10月23日=築港到着の翌日死亡)。
 ・安汝貴は、連れ去られる前は我が家の主要な労働力だった。七人家族を養う収入はすべて安汝貴の肩に掛かっていた。家族は労働力を失ってから生活を維持していくことができなくなり、安汝貴の父の安近、長男の安哲、一番下の息子の安汝春の三人は、餓死させられた。その後、3ムーの田畑を売り払い、家も人もすべて失ってしまった。